日刊競馬コラム
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日刊競馬で振り返るGI
カネツフルーヴ
(2003年川崎記念)


レース柱(699KB)


 第52回川崎記念の覇者カネツフルーヴは、言うまでもなくロジータの息子である。ロジータは昭和63年、川崎の福島幸三郎厩舎からデビュー、5歳(現在の4歳)春、フルーヴより13年ほど前に当たる第39回川崎記念での勝利を最後に、競走生活の幕を閉じた。通算成績15戦10勝。南関東クラシック3冠、さらには東京大賞典、川崎記念。中央競馬的な言い方をするならば、いわゆる5冠馬。デビューからわずか1年あまりの間に、帝王賞を除く、ありとあらゆる主要なタイトルを総なめにして、南関東の砂上を彗星の如く颯爽と駆け抜けて行った。

 と書いてはいるが、実は私、ロジータが競走馬として活躍していた当時はまだいがぐり頭の中学生。当然、競馬場で実際に走る姿を見ているわけもなく、それからウン年後、初めて南関東の競馬というものを知り、急速に心惹かれていく過程で、初めてこの稀代の名牝の存在を知るわけである。

 当時の南関東、というか地方競馬全体において(今でも決して発達しているとは言えないが)過去のレースを映像として見ることなど、一般のファンにはほぼ不可能に近く、必然イメージを描くとすれば、諸先輩方の文献が中心となる。そこでの様々なエピソード、例えば引退レースの川崎記念、ロジータ以外の単勝オッズがすべて万馬券だったこと、などを読むにつけ、いつしか私の頭の中ではロジータ=伝説の馬というイメージがすっかり出来上がってしまった。

 そして、時は過ぎ、私もいっぱしの大学生となる頃には、ロジータも産駒をデビューさせるようになっていた。当時、大学の競馬サークルではペーパーオーナーズゲームが大流行、そこではこの血統は誰々のものというようなルールが、暗黙の了解のうちに出来上がっていた。その主流は、兄弟がGI馬であるとか、あるいはGI馬の産駒であるとか、やはり中央競馬が基準の良血馬であり、いくら南関東では歴史的名牝であるロジータといえども、サークル内での人気は決して高くはなかった。そんな中、私があえてドラフト1位で指名したのが、オースミサンデー。もちろんロジータの産駒だ。彼は弥生賞で2着し、勇躍皐月賞に駒を進めたものの、本番では無念の競走中止。わずか3年弱でその生涯を終えてしまった。しかし彼は、そんな短い競走人生の中で、母の繁殖牝馬としてのポテンシャルの高さをはっきりと示してくれると同時に、実はこれから始まるロジータ物語第2章のプロローグをも我々に示してくれていたのだ。彼はデビュー3戦目でダートに挑戦するのだが、彼の父はあのサンデーサイレンス。今でこそゴールドアリュールなどの出現で、ダートでも一流の能力があると認められたSSだが、当時は芝でこそと思われていた種牡馬である。事実、ペーパーオーナーであった私も、初めて彼がダートに出ている出馬表を見て、なぜ?と首をかしげてしまうほどであった。それが終わってみれば好タイムでの圧勝。結局、彼のダート経験はこの1度きりに終わってしまい、その適性の全貌は分からなかったが、これが後々フルーヴへと繋がっていくことになる。

 私とフルーヴとの出会いは、7年前の夏に遡る。当時、晴れて日刊競馬の一員となった私は、学生時代からの念願であった一口馬主となるべく、ありとあらゆるクラブのパンフレットを物色していた。いわゆる有名クラブといわれるところのそれを一通り見終わって、あとはたいした期待感もなしにある小さなクラブのカタログをパラパラとめくっていた時、突然目に飛び込んできたロジータの文字。その瞬間、脳天からつま先まで、一気に電流が流れ落ちるほどの強烈な衝撃を感じたのを、今でもはっきりと覚えている。私にとって神同然の、あの伝説の名馬の仔を買うことができる。そう思うといても立ってもいられず、夢中で電話のボタンを押していた。父が地味な新種牡馬だったパラダイスクリーク? いやそんなことは、まったく私の行動を躊躇させる要因とはならなかった。ただ、ロジータの仔を持てるという喜び、それのみに我が脳内は支配されていたのだから。

 フルーヴも兄同様デビュー2戦は芝だった。しかし、“決め手”という言葉とはおよそ無縁なワンペースな走りで、2・3着。初勝利は3戦目、京都ダート千八の未勝利戦。後続を7馬身ちぎる圧勝だった。血統からも、馬体、走法からもダート向きなのは明らかだったが、より人々の注目を集める舞台で走らざるをえないのがクラブ馬の宿命なのか、その後は芝のクラシック戦線へ矛先を向けることになる。そこでもスプリングステークス3着などそれなりの結果は残したものの、やはり決め手不足は如何ともし難く、10戦目のしゃくなげステークスからは再びダート路線を選択。以降こつこつと勝ち星を積み重ねはしたが、合計1年以上の休養があったせいもあり、結局晴れてオープン馬の仲間入りを果たせたのは、デビューから数えて実に21戦目、5歳の春であった。

 そんな彼が最初に南関東の舞台に姿を現したのが、その年大井競馬場で行われた第25回帝王賞。前走の東海ステークスでも5着と敗れており、GIの錚々たる顔ぶれに入っては格下感は否めず、たとえここが母のホームグラウンドであるとは言っても、6番人気という低評価は妥当と思えた。本来フルーヴには人一倍思い入れがあるはずの私であっても、この時点で重い印を打つことは、プロの予想家としてやはりはばかれた。

 しかし、下手な予想はものの見事に裏切られてしまう。道中楽に2番手につけた彼は、直線に入ると力強く抜け出し、なんと2着ミラクルオペラに2馬身半もの差をつける完勝。こうして我が愛馬の、そしてロジータ産駒初のGI制覇は、いともアッサリと達成されてしまったのだ。確かにパワーには並外れたものをもつ反面、明らかに瞬発力に欠けるフルーヴにとっては、同じダートでも中央より地方のそれが合ったのは紛れもない事実だろう。とはいっても、正直これほどまでの大変身ぶりを見せつけられると、やはり母ロジータの血の後押しが少なからずあったと思わざるをえない。フロックではないが、ミラクル。この帝王賞はまさにそんなレースだったのではないか。そう私は今でも解釈している。

 さて、今回の本題は彼のGI2勝目である翌年の川崎記念だ。結論から言うと帝王賞が母ロジータの見えざる力が働いた部分が大きかったものであるとするならば、この川崎記念は紛れもなく彼自身が実力で奪い取ったタイトルに他ならないということ。テンから猛烈な勢いで突っ走り、最後は完全にバテながらも一心にゴールを目指す。そのレースぶりには、帝王賞で見せた華麗さはない替わりに、強烈なまでの個性と泥臭さがあった。これぞカネツフルーヴの真骨頂。いくら上がりが42秒1もかかろうとも、勝ちは勝ち。これも立派なGIの勲章なのだ。

 続くフェブラリーステークスでも4着と好走した彼は、返す刀でダイオライト記念、オグリキャップ記念と連破。競走生活のクライマックスを迎える。しかし、好事魔多しとはまさにこの事。オグリキャップ記念を9馬身差の独走でフィニッシュした直後、転倒して右ひざに外傷を負ってしまうのだ。これで目標にしていた東海ステークス、帝王賞は回避を余儀なくされ、秋JBCから復帰するも、ついに再びその輝きを取り戻すことはできなかった。

 通算成績37戦10勝。GIは帝王賞と川崎記念の2勝。昨今のダートのつわものたちの中に入ると、決して突出した成績を残したとは言えない。それでも、かつて母が数々の伝説を紡いできたこの南関東の地で、記録にも記憶にも残る貴重な勝ち星を二つも残せたという事実。それだけで、フルーヴはロジータの息子としての責務を立派に果たしたのだと、そう私は確信している。

カネツフルーヴ 1997.4.26生 牡・黒鹿毛

競走成績:37戦10勝
主な勝ち鞍:帝王賞、川崎記念
パラダイスクリーク
1989 鹿毛
Irish River
North of Eden
ロジータ
1986 鹿毛
ミルジョージ
メロウマダング