HOME > 日刊競馬で振り返るGI > 1984年マイルチャンピオンシップ
 
MCS・口取り 題字
GI復刻版 1984年11月18日
第1回マイルチャンピオンシップ
馬柱をクリックすると別ウインドウで開き大きな馬柱を見ることができます。
馬柱 ◎グレード制の導入
   ・距離体系の改善


 1984年(昭和59年)の日本の競馬界といえば、皇帝シンボリルドルフが史上初の無敗の三冠馬になった年として記憶されているが、他にも忘れてはならないことがいくつかある。

 その筆頭は競馬番組の改善だろう。日本中央競馬会創立30周年。これを機に懸案であった改革に踏み切った。ファンの間では議論百出。当時大学の新入生だった筆者も、先輩達とその是非について語り合ったのを覚えている。

 要旨は大きく分類して6つ。1・重賞競走の格付け、2・距離体系の改善、3・3歳(現2歳)牝馬競走の増設、4・ダートの重賞競走の増設、5・クラシックレースの優先出走権の見直し、6・外国産馬と持ち込み馬の番組上の取り扱いの改善。いずれも現在に至るまで大きく影響を及ぼしているものばかりである。

 まず、ファンの注目を集めたのは、目新しい“G”の文字。平地重賞は3つのランクに分けられ、は生産の指標となる根幹競走として15レース、に次ぐ主要な競走とされ24レース、はハンデ戦や賞金による重量格差のある別定戦を中心とした55レース。それまでは賞金や歴史によって何となく格付けされていた各重賞が、より明確に差別化されることになった。

 距離別路線の整備。ファンにとって一番違和感があったのは、秋の天皇賞の距離短縮だった。伝統の一戦が3200Mから2000Mへ。これは厩舎関係者も同様だったらしく、「天皇賞を勝ってもうれしさが距離と同じく半分くらいになるかも」という声まで挙がった。

 生産の現場が条件戦のレース数の多い短〜中距離志向で、大レースが2400M以上に集中。今考えれば、バランスを取るための納得できる改善だったのだが、当時は明らかに距離適性の見劣る馬もダービーや天皇賞に出走していた時代。長距離戦の栄誉を重んじる風潮が強かった。

 そんな中、マイルチャンピオンシップは創設された。実施時期は11月の京都。格付けは。春の安田記念(東京1600M・)と並んで、短距離路線のチャンピオン決定戦と位置付けられた。

 とはいえ、まだファンにも業者にもピンとこない。短距離重賞がダービーや天皇賞と“同格”と言われても…。そして、馬券の発売もすべての競馬場・場外というわけではなかった。当然、盛り上がりも今ひとつだった。

 掲載の第1回マイルチャンピオンシップの紙面をご覧いただきたい。当日版にもかかわらず、成績は前3走だけ。載ったのも4面(当時は4ページ版)だった。1面を飾ったのアルゼンチン共和国杯の方が“格上”の扱いであった。

 付け加えると、弊社は京都にカメラマンを派遣しなかった。改めて社内で探してみると、1988年以前、つまり昭和のマイルチャンピオンシップの生写真は一枚もない。よって紙面右上の写真は安田記念のニホンピロウイナーとなった。

◎奮闘するマイル王

 もし、距離体系の改善がなかったら、マイルチャンピオンシップがなかったら、ニホンピロウイナーはどんな評価を受けただろうか。安田記念は勝ったけど、同期のミスターシービーや1年後輩のシンボリルドルフより“弱かった”…ということになったかもしれない。引退レースは有馬記念(で完敗)だったかもしれない。

 確かに、ニホンピロウイナーは、この三冠馬2頭に1度たりとも先着することがなかった。したがって、その評価は全面的な間違いではない。しかし、あくまで一面的。当時の陸上選手に例えれば、カール・ルイスが400Mを走ったようなものだ。舞台が違えば、結果も変わった可能性は大いにある。

 ニホンピロウイナーは1983年(昭和58年)秋以降、16戦11勝。良〜稍重の1600M以下では無敗の快進撃だった。相手も決して弱くない。桜花賞馬・シャダイソフィア。ミスターシービーに土をつけたステートジャガー。シンボリルドルフのダービー2着・スズマッハ。これらに、ことごとく完勝している。

 掲載の第1回マイルチャンピオンシップ2着馬・ハッピープログレスは84年の“春の短距離三冠馬”。(当時)スプリンターズS、京王杯スプリングC、安田記念を制し、ここを勝てば最優秀スプリンターの座は確実。その強豪に、着差こそ1/2馬身でも快勝したのだから、文句なしに無敵のマイル王であった。

 敗れたとはいえ天皇賞・秋も見事だった。改革2年目の1985年(昭和60年)。まだ賛否両論が渦巻く中、ギャロップダイナ、シンボリルドルフ、ウインザーノットとの攻防は、我々を十二分に興奮させた。3着同着。天皇賞の距離短縮がなければ、この名勝負を見ることはなかったであろう。

 その3週間後、ニホンピロウイナーは第2回マイルチャンピオンシップの優勝を花道に引退した。もう、マイル路線がマイナー視されることはなくなっていた。距離体系の改善、大成功である。

◎競馬史に偉大な足跡

 ニホンピロウイナーは種牡馬としても存在感のある個性派だった。繋養先は門別の下河辺牧場日高支場(のちに佐々木節哉牧場)。父・スティールハート、母の父・チャイナロック。母系はキタノカチドキの近親。距離に限界はあるものの、スピードとパワーを兼ね備えたサイアーとして期待され、初年度(1987年・昭和62年)から60頭前後に種付け。条件戦から重賞まで、数多くの活躍馬を送り出した。

 代表産駒はヤマニンゼファー。安田記念優勝2回の他、父が勝てなかった天皇賞・秋を8年後の1993年(平成5年)に制している。フラワーパークもスプリンターズS、高松宮杯(当時)で2勝。名スプリンターの仲間入りを果たしている。収得賞金のランキングでは最高6位(1996年・平成8年)。ニホンピロプリンス、トーワウィナー、メガスターダム…。1200Mから2000Mまでので好走する産駒が多く、「生産の指標となる根幹レース」の勝ち馬らしい種牡馬成績だった。

 2005年(平成17年)3月17日、ニホンピロウイナーは惜しまれながら25年の生涯を閉じた。ともすれば軽んじられる短距離戦の価値を高め、自らの強さを示し、なおかつ種牡馬としても成功。改めて振り返ると、日本の競馬史に残した足跡は、ミスターシービーやシンボリルドルフに勝るとも劣らない。

 海外まで視野に入り、今日では確固たる地位を築いた日本の短距離路線。その黎明期にニホンピロウイナーを得たことは幸運だったといえよう。

[田所 直喜]

☆第1回マイルチャンピオンシップ 優勝馬☆
ニホンピロウイナー 1980.4.27生 牡・黒鹿毛
スティールハート
1972 黒鹿毛
Habitat
1966 鹿毛
Sir Gayload
Little Hut
A.1.
1963 芦毛
Abernant
Asti Spumante
ニホンピロエバート
1974 鹿毛
チャイナロック
1953 栃栗毛
Rockefella
May Wong
ライトフレーム
1959 黒鹿毛
ライジングフレーム
グリンライト
Hyperion 5x4 Rustom Pasha 5x4 Nearco 5x5
 



馬主………小林百太郎
生産牧場…門別・佐々木節哉
調教師……栗東・服部 正利

通算成績 26戦16勝[16.3.1.6]
主な勝ち鞍 マイルCS(1984,85年)
安田記念(1985年)

受賞歴 JRA賞
最優秀スプリンター
      (1983,84,85年)

全成績はこちら


1984年11月18日
第1回マイルチャンピオンシップ(G I) 京都・芝1600m・良
[2]ニホンピロウイナー牡557河内  洋1.35.3
[7]12ハッピープログレス牡757田原 成貴1/2
[6]11ダイゼンシルバー牡455西浦 勝一2.1/2
 上がり 47秒9−36秒0
単勝 120円  複勝 100円 130円 160円
枠番連複 2−7 290円