日刊競馬コラム
for SmartPhone

日刊競馬で振り返る名馬
イシノヒカル
1972年・第33回菊花賞

時代遅れの血と男
 豪脚イシノヒカル

◎時代背景

 
 レース柱(851KB)


 イシノヒカルのデビューした1971年はマクドナルド1号店、京王プラザホテル完成、カップヌードル、アルミ缶ビール発売。円の変動相場制移行=1ドル308円。洋画はアラビアのロレンス、ライアンの娘。作家は高橋和巳、三島由紀夫が人気だった。

 菊花賞を制した1972年は沖縄返還、今太閤・田中角栄首相、連合赤軍事件、光化学スモッグ、狂乱物価、土地暴騰など社会問題が多発。

 私にとって一番思い出深いことは、よく仲間と酒盛りをした赤煉瓦の廃墟だった淀橋浄水場跡に京王プラザホテルができたことである。大学に行く気もなく、毎日できたばかりの新宿西口公園で時間を潰し、京王プラザホテルの地下工事から完成までを見続けていたのだった。工事現場の人間を除けば、私が一番京王プラザホテルの工事を見ていたに違いない。都庁もその他の高層ビルも何もない空き地の中に、まな板に窓をつけたような建物が出現したのである。もちろん、宿泊したことは一度もないし、33年間で京王プラザの喫茶室に1度だけ入っただけで、私には無縁の建物であるが。ゴキブリ系の私たちは淀橋浄水場跡からゴールデン街へと追いやられることになったのである。

◎長距離の右回りオンリー

 イシノヒカルのデビュー戦は1971年9月25日、新馬(中山・芝1000)5着、折り返しの同じ条件の新馬2着。東京に舞台を移した未勝利戦が2着。初勝利は11月21日の初めて1番人気になった未勝利戦(東京・芝1200)だった。マイナーな種牡馬マロット産駒、地味すぎる浅野厩舎ということもあり、デビューから4、5、5番人気だった。

 ところが、1600に距離が延びた寒菊賞(中山)を4馬身差圧勝。流感のため1月~2月の関東開催は中止となり、年が明けた旧表記4歳初戦は3月5日のオープン(中山・芝1600)だった。これを4馬身差の楽勝、続く3月18日のヴァイオレットS(中山・芝1800)をなぎ倒しての4連勝となれば、さすがに関東No.1の声が出るようになるのである。しかし、この年の牡馬クラシック戦線は流感の影響を受けなかった関西三強(ランドプリンス、タイテエム、ロングエース)断然ムードだったのである。

 4月29日のオープン(東京・芝1600)でイシノヒカルが東上初戦のロングエース、ランドプリンスに5馬身も離された4着とあって、東西の力量比較は決定的だった。

◎モノが違う!

 こうした戦力分布で5月28日の皐月賞を迎えるのである。1番人気は〔5.0.0.0〕のロングエース。2番人気は〔4.0.1.1〕のセントクレスピンの持ち込み馬タイテエム。3番人気が〔5.4.2.2〕の日本におけるテスコボーイ初年度産駒ランドプリンス。関東代表〔4.3.0.2〕のわがイシノヒカルは当然4番人気だった。

 当時私が住んでいたのは東京競馬場外厩の浅野厩舎から通用門を出て数十メートルの社宅だった。毎日のように浅野厩舎に顔を出し、担当の向中野豊太郎厩務員や、小島武久騎手、浅野調教師と話をする“顔なじみ”だったのである。

 イシノヒカルは左前足が外向していたために、能力を出し切れるのは右回りだけだということを知っていた。しかも、弱い馬の取材だと「馬じゃない」とそっけない、トサミドリの鞍上で皐月賞、菊花賞を勝っている、浅野調教師がイシノヒカルに関しては「モノが違う!」と目を剥いて断言するのである。馬券はイシノヒカルから関西三強と決めていた。ところが、当日の中山競馬場記者室で中山のトラックマンが「タイテエムが中間熱発したぞ」と教えてくれたのである。2ヵ月前に結婚式をあげ、女房は出産が近いので実家に帰っている。ちょっと計算が合わないが、深く考えずに読み飛ばしていただきたい。入社2年目薄給の身、出産費用を稼がなければならない。給料直後のレースである。イシノヒカルの2枠から、ロングエースの8枠、ランドプリンスの3枠への2点で勝負した。

◎出産費用が賄えた

 ロングエース、タイテエムは好位、ランドプリンスはその後ろのインで流れに乗っている。イシノヒカルはリボー系のマロット産駒らしくなかなか加速がつかずに二角を回るところでは最後方。私は双眼鏡でイシノヒカルを中心に見ていたが、後方にいるぶんにはいささかの不安も抱かなかった。向う正面を過ぎて三角手前で加賀騎手が気合を入れると、イシノヒカルは三角~四角では大外から全馬をまくって先頭に並びかけたのである。いくらなんでも強引過ぎる。このときは肝を冷やしたものだ。さすがにゴール前では終始インで楽をしていたランドプリンスに1/2馬身差し返されたものの、3着ロングエースには2馬身差のセーフテイリードがあった。枠連2-3は1990円。払い戻しは給料の4ヵ月分、出産費用がまかなえた。かくして、私の一番子の名はヒカルとなったのである。

◎左回りは用無し

 1972年7月9日のダービーは1頭が出走を取り消し27頭立て。左回りでのイシノヒカルは眼中になく厩舎回りは関西三強中心だった。

 ランドプリンスの厩務員はカイバ食いに影響することを危惧して誰も馬房の近くに寄せ付けない。しかし、会社から「入厩全馬の顔写真を撮れ」と命令されているため、「私が厩務員を引き付け囮になるから、シャッターを押せ。あとは走って逃げる」とカメラマンに依頼し、厩務員氏がバケツの水を浴びせかけた時にはまんまと逃げおおせた。今となっては懐かしい思い出である。

 一方、ロングエースの厩務員は若い田中君だった。ガチガチに緊張しながら仕事をしていたが「最高のデキです」と言う。ロングエースの単勝と、枠連はランドプリンス、タイテエムへの2点の勝負だった。  レースは関西三強が鼻面をそろえる追い合いで、1着ロングエース、クビ差2着ランドプリンス、頭差3着タイテエム。単勝470円。枠連800円。

 好きな競馬、負けることなど考えられない馬券。いい商売だ、と24歳の私は思ったものだ。ツキが売り切れた45歳過ぎからはサイの目が裏に出だすことなど、その当時には考えもしなかった。そうそう、わがイシノヒカルのダービーは0秒7差6着だった。春はもう1戦、7月30日の日本短波賞(東京・芝1800)でスガノホマレの2着後、菊花賞に備え夏の休養に入ったのである。

◎5000メートルの菊花賞

 京に下ったイシノヒカルは11月3日のオープン(京都・芝2000)を1着し、11月12日の菊花賞に連闘で臨んだのである。オープンに騎乗した小島武久騎手は「本番で乗れないオレの菊花賞はオープン。目一杯追ったさ」と私に話したものだ。イシノヒカルは菊花賞での本馬場入場後、返し馬を嫌がりテコでも動かず場内を沸かせたが、これが原因だったかもしれない。スタート前の落鉄もあった。

 それでも、イシノヒカルは右回りの長距離なら“モノが違う”のである。加賀騎手が海外出張のため乗り替わった増沢騎手のゴーサインに応え、一旦加速がついたらどこまでも伸びる豪脚で淀3000を突き抜けた。2着タイテエムに1馬身1/2差の完勝だった。

 1ヵ月間隔をあけた1972年12月17日の有馬記念でも、右回りで2500の距離があれば、イシノヒカルに敵はいない。古豪メジロアサマをねじ伏せ1馬身1/2差の楽勝で旧表記4歳を締めくくっている。

◎向中野さんの1升瓶

 向中野厩務員は「うちのテキは偉い。脚が曲がった安馬をこれだけ走らせるのだから」と言っていたものだが、事実、弱小浅野厩舎は武志師が古武士然とした風貌で朝に晩に乗り運動をし、奥さんも一心不乱に厩舎の仕事をしていた。もっとも、私から見れば足元に弱点を抱え強い稽古のできないイシノヒカルを、左手の1升瓶から焼酎を口に含み、イシノヒカルの馬体に吹きかけ、右手の藁でブラッシングを繰り返す向中野厩務員の仕事振りにも感心させられたものである。

 「半分はオレが飲んじゃうけどな、ガハハハッ。焼酎を吹きかけて擦ると脂肪が付かないんだ」と太鼓腹をゆすって向中野さんはいつも陽気に笑うのだった。彼によれば、「イシノヒカルが脚を痛がらなかったのは菊花賞の時だけ」だったそうである。

 有馬記念後のイシノヒカルは風の便りだと九十九里浜の海水で冷やしながらのリハビリなど、ありとあらゆる手を尽くしたという。だが、走れる脚に戻ることはなかった。厩舎一丸となった懸命の努力もむなしく、有馬記念から11ヵ月後の1973年11月3日のオープン戦(東京・芝1800)に姿を見せたものの、もはやイシノヒカルはかつてのイシノヒカルではなかった。3秒以上離され7頭立て7着だった。これが彼の最後のレースとなった。皐月賞=1990円、菊花賞=2230円、有馬記念=820円。浅野厩舎の米びつは私の米びつでもあった。1600m以上の右回り〔6.1.0.0〕。イシノヒカルの馬券は一度も外したことがなかった。

◎明治は遠くなりにけり

 1986年4月11日、放牧中に急性心衰弱でイシノヒカルは逝った。父マロットと同じく18年の生涯だった。そして、明治43年生まれの古武士、浅野武志氏もイシノヒカルの最後を見届けた27日後の5月8日76歳で亡くなった。イシノヒカルは産駒にトカキヒカル、ミラクルハイデンなどほとんど無名の馬しか遺さなかった。イシノヒカルが勝った3年後、同じマロット産駒、同厩舎、同馬主のイシノアラシが有馬記念を勝っているが、日本の競馬は逞しさやスタミナから馬場改良や芝の研究などによって、軽いスピード競馬に移行しつつあった。煙草も酒も血統や人間までも、すべてがライト感覚の時代の到来を前に、無骨なリボー系マロット産駒を駆使して、時代遅れの無口な明治男が見せた最後の抵抗、それがイシノヒカルだったのかもしれない。

イシノヒカル 1969.5.6生 牡・鹿毛

競走成績:15戦7勝
主な勝ち鞍:菊花賞
有馬記念
マロット
1959 黒鹿毛
Ribot
Macchietta
キヨツバメ
1958 栗毛
ハロウエー
シエーン