日刊競馬コラム
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日刊競馬で振り返る名馬
トウメイ
1971年・有馬記念

虐げられた悲しき下女
浪花娘のシンデレラ物語

◎貧弱な田舎の小娘

 
 レース柱(449KB)


 1966年5月17日、日高の谷岡増太郎氏の経営する谷岡牧場で父シプリアニ、母トシマンナの牝馬が生まれた。父も母も体高がなく小柄だったため、当然のごとくこの牝馬も貧弱な体つきだった。

 1972年1月号の『優駿』によると、「セリで165万円の値が付いたものの、買い手が付かず大井に下ろすことになったが、預かる予定の高木清師が亡くなったため、清水茂次厩舎に入ることになった」のだそうだ。担当の茶谷厩務員によれば、「体がなくて毛づやが悪く、貧弱だった。人になつかず手入れをすると暴れたので、誰も面倒を見なかった。厩舎の近くの空き地に入れっぱなしで、夕方になると誰かが厩舎に入れていた」という。デビュー前に流れ流れて転々と。引き取り手が決まってからも厄介者扱いの下女のような扱いを受けている。誰もが見向きもしない貧弱な田舎娘。それがトウメイだった。

◎耐え忍んだ芯の強さ

 1968年8月30日、札幌のデビュー戦2着。連闘の新馬2戦目で早くも勝ち上がっている。

 帰厩後は5・1・1・1・2・1着と、いつも終いは確実に伸び、崩れることはなかった。ただ、関西のレースは映像で見ることはできなかった時代である。我が社の社員が代々手書きしていた成績カードで記録されていることしか分からない。しかし、次の桜花賞はNHKやフジTVの中継があったので、かすかな記憶がある。華麗な逃げ馬ファインハッピー。大厩舎、大馬主、良血ヒデコトブキと人気を分け合い、最終的にはトウメイが1番人気。1500メートルまでレースの主役はトウメイだったが、ゴール手前でヒデコトブキの瞬発力に屈して2着。

 初の東上のオークスもシャダイターキンに0秒1差3着。この後も使い続け、3~4歳(現2~3歳)時は〔7.6.2.2〕で終え、5歳(現4歳)になると、オープン1着、マイラーズC1着、阪急杯2着後、脚部不安のために8ヵ月の休養に入るのである。  普通なら410キロ前後の牝馬がダテホーライ、アカネテンリュウなど、牡馬一線級を下して重賞を勝っただけに、引退しても不思議はない。全成績〔9.7.2.2〕。立派なものである。だが、トウメイ物語はこれから始まるのだ。

◎東に命を受けた馬

 余談だが、トウメイは1969年に全線開通した東名高速道路から命名したと言われているが、『優駿』によると、馬主の近藤克夫氏はメイトウ(名刀)としたが、すでに馬名登録があったために、メイとトウを入れ替えたそうである。ただ、私は東に命を受けた馬=東命だと思っている。なぜなら、トウメイの産駒に天の命を受けたテンメイがいるからである。

 実際、トウメイが戦後最強の牝馬と呼ばれるようになったのは、休養から復帰して2度目のマイラーズCや、阪急杯勝ちなどを含め〔4.3.0.1〕と走り続けて東上した6歳(現5歳)の秋があればこそなのである。

 1971年10月31日、牝馬東京タイムズ杯。かつてこれほど強い勝ち方をした馬を見たことがなかった。追い込み馬トウメイはちぎって勝つタイプではない。このときも2着パールフォンテンとの差は1馬身1/2だが、トウメイは重馬場を考えてか、大外を馬なりのまま、なでるように回ってきただけなのである。記者室からは「トウメイ9分馬なり」の声が上がり、そこにいたすべてのトラックマンが同意したものだ。

◎世代を超えた名牝

 続く天皇賞(東京・芝3200)は11月28日だった。このころ私はまだ2年目の若い茶谷厩務員(当時は馬丁だったか、馬手だったか…。いずれにしても、地位向上とともに現在は厩務員に定着)とよく話していたものである。

「カイバは食ってる? 距離は大丈夫?」

「天皇賞10回も勝っている保田先生に乗り方はしっかり聞いているし、追い出す場所も確認済み。心配いらん」

 当時、トウメイは保田隆芳厩舎預かりで、保田師が事実上管理していたのである。私のうまや通いのなかで、最も記憶に残っているのは、トウメイの目である。

 夕方、誰もいない薄暗いうまやを覗き込んだら、トウメイと私の視線が合った。トウメイは微動だにせず私を睨み付けている。こちらも睨み返したのである。いわゆるどちらからともなく“ガン”を飛ばし合ったのだ。彼女の目は己の運命を呪うかのように反抗的で復讐心に燃えたすさまじいものだった。先に視線をそらしたのは私だった。背筋に悪寒が走るような気分でうまやを後にしたものだ。今でも、あのときのトウメイの目を忘れることはできない。馬の目ではない、強い意志と恨みを込めた怨念。あれは断じて馬の目でなんかあるものか。

◎未曾有の流感事件勃発

 トウメイはスピーデーワンダーを外から差し切る危なげのない勝利で64代の天皇賞馬となった。

 そして12月19日の有馬記念に駒を進めることとなったのだが、有馬記念の当日から大事件は勃発した。流感である。

 どうしても出走してくれと競馬会職員に懇願された馬。友引(人気馬と同枠のため取り消す)を余儀なくされた馬。熱発(厩舎用語で発熱と同じ)で取り消したメジロアサマ、アカネテンリュウ…。いったいどの馬が健康で、どの馬が熱発しているのか? 現場で取材しているわれわれにも全く分からない。この日取り消した馬が21頭、有馬記念は疑心暗鬼。もう馬券を検討するどころではなかった。この有馬記念は私が競馬を始めてから30数年、たった1度だけ馬券を買わなかった大レースとなった。

 レースはトウメイが天皇賞と同じように、終始馬場の外を回る横綱相撲でコンチネンタルを1馬身1/2差降し、ガーネット以来、牝馬としては史上2頭目の天皇賞・有馬記念連覇を成し遂げている。東上3戦目で、反抗的なこの馬に、清水英次騎手は初めて1度ムチを入れたという。もっとも、ムチなど必要がなかっただろうが…。

 強敵の取り消した7頭立ての有馬記念。外厩にいて流感を免れたトウメイの幸運を言う人がいる。だが、私は思うのだ。あの時のトウメイの勢いを止められる馬などいなかったと。奇しくも、有馬記念を取り消さざるを得なかったメジロアサマを管理していた保田隆芳師が、かつて私に言ったことがある。

「どの馬が強いか比較しても意味がない。いろいろな考えがある。私は競馬は結果がすべてだと思います」。

 トウメイの偉業はこの後の、関東の1月、2月の競馬開催中止の流感大騒動の前に掻き消えてしまったのである。それは当然である。競馬の存続が危ぶまれた大事件だったのだから。

◎母として女として

 屈折した生い立ちを背負った者は、逆境をバネに夢を実現したとしても、幸せとは無縁の人生を歩むことが多い。目的実現のために、たくさんのものを捨てるからだ。実利を得れば心が渇くものだ。

 だが、我がトウメイは強靭な精神力で競走馬の頂点を極めた。そしてまた母としての栄光をも手にしているのだ。

 1978年11月26日、母が走ったあの道を。「テンメイが来た!」。アナウンサーの叫びに7年前のトウメイの目がフラッシュバックした。プレストウコウとの競り合いを渾身の力でもぎ取った清水英次騎手がインタビューに応えていた。「いや~女の上にいるほうがずっと楽です」。場内は沸いたが、清水英次騎手のために付け加えるなら、後日、「女とは牝馬=トウメイのことです」と彼は釈明している。

 ルイスデールとの間に生まれたトウメイの2番仔テンメイは78代天皇賞馬となった。女として母として完結した強靭な意志。「トウメイよ、おまえは偉いなあ~」。鳥肌の立つ感動を味わいながら、私は思わずつぶやいていた。

◎競馬場は最高の大学だ

 寺山修司は「大学より多くのものを競馬場で学んだ」と書いている。

 高木清、清水茂次、坂田正行と3人の調教師に管理され、野元、簗田、高橋成、井高、北橋、清水英、西橋騎手を背に、たった1度も掲示板を外すことなく31戦。痩せた牛のような体で、叩いて叩いて叩き抜かれて真価を発揮したトウメイ。近年は一流馬ほど数を使わないが、すべての力を出し切っての引退だろうか。繁殖に影響するためか、牝馬は特に引退が早いが、トウメイからは、真に鍛え抜かれた馬は母となっても一流になれるのだということを、改めて思うのだ。

 トウメイは人間や馬との戦いに勝ち抜いた。彼女には他者に運命をゆだねるトラウマなんて言葉は無縁だった。確かに今は閉塞感の垂れ込める時代ではある。だが、自閉的なあるいは自傷的な若者たちに知って欲しいものだ。主体性とはなにかを。トウメイのように、自分の道は自身で切り開けるものなのだということを。

トウメイ 1966.5.17生 牝・鹿毛

競走成績:31戦16勝
主な勝ち鞍:天皇賞(秋)
有馬記念
シプリアニ
1958 黒鹿毛
Never Say Die
Carezza
トシマンナ
1958 栗毛
メイヂヒカリ
トシフジ