日刊競馬コラム
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日刊競馬で振り返る名馬
ビワハヤヒデ
(1993年・菊花賞)

 
 レース柱(1.25MB)


 ビワハヤヒデは、幼少のころは細くて体質が弱かったそうだ。近親のファレノプシスもそうだったらしい。対照的にこの一族で最初から元気だったのはビワタケヒデだが、タケヒデは春のクラシックには間に合わず、福島のラジオたんぱ賞を勝っただけで、結局未完成で引退した。本当に馬は難しい。牧場では見映えのしないハヤヒデを調教師に見せたがらなかったようだが、月日がたつにつれて丈夫になっていった。そしてハヤヒデは、栗東に入ったあとは調教の動きが違った。

 ハヤヒデに出会った調教師は浜田光正。東京生まれで東京大空襲に遭って苦労して、関西に移って苦労して、調教師になるのも大変だったという。師は徐々に『この馬は走る』と感じるようになり、デビューのころには確信に変わっていた。

 谷口浩美選手の「こけちゃいました」が有名になったバルセロナオリンピックが終わって少しあとの1992(H4)年9月13日、ハヤヒデは阪神芝千六でデビュー。メンバーの中にはダンシングサーパス(のちに宝塚記念3着など)がいたが、1秒7も差をつけて勝った。次のもみじSは1分34秒3でレコード勝ち。ここには牧場の同期生マーベラスクラウン(のちのジャパンC馬)がいたが、素質の違いを見せた。

 デイリー杯3歳Sで重賞勝ちしたあと朝日杯3歳Sに出走。早めに抜け出しにかかったが、外国産馬エルウェーウインにゴール前馬体を併された。僅かハナ差負けだった。この結果、この年の最優秀3歳牡馬はエルウェーウインのものになった。

 翌1993年(H5)のクラシックは、皐月賞=ナリタタイシン・ダービー=ウイニングチケット・菊花賞=ビワハヤヒデの3強が分け合った。ナリタタイシンはダービーが3着、菊が17着。ウイニングチケットは皐月4着、菊3着。ハヤヒデだけは皐月2着、ダービーも2着と律儀に連対を果たした。ハヤヒデはよく運動して、よく食べた。体重は常に470~80キロ台だが、いつも張りが良くて体重以上に大きく見せていた。特に体調がいい時は青みがかったように見えた。しかし体のわりに頭がデカくて、どこにいてもすぐに分かる馬だった。担当の荷方末盛厩務員は、ほとんど休日返上でハヤヒデに付きっきりだが、お互いに神経質になることはなかった。牧場時代に弱かったハヤヒデは、人の世話になることが多かったためか、必要以上に人に警戒心を持たないタイプだった。

 93年の夏は涼しい夏だった。ハヤヒデは放牧に出されず、厩舎で夏を順調に過ごした。それでもひと回りも、ふた回りもパワーアップしていた。

 そして迎えた菊花賞。ナリタタイシンはアクシデントがあって万全ではなかった。ウイニングチケットは京都新聞杯を勝ってきていた。しかしほとんど負けたと思った瞬間、もの凄い切れを発揮。ゴール寸前でマイヨジョンヌを捕らえた辛勝だった。京都新聞杯で伝家の宝刀を抜いたウイニングチケットは、菊花賞3着といってもハヤヒデに1秒差をつけられた。そしてこのあとのレースも勝つことはできなかった。

 ハヤヒデは、1周目は足もとを見るようにして走る。騎手の岡部幸雄も最初から飛ばさないようにと一生懸命手綱を引っ張っていた。しかし勝負どころにくると、ハヤヒデは頭を上げて走るようになる。これが気に入らないとか、走り方が悪いと言う人もいるが、クビを使って懸命に走っているように見えるフォームは、消耗度の大きいものでもあり、なかなか疲労が抜けにくくなる場合もある。その点ハヤヒデはレース後比較的早く回復することが多かった。それに、頭を上げて颯爽と走る馬の夢を見た時は臨時収入があるかもしれないという意味があるらしい。

 この年の有馬記念でハヤヒデは、1年ぶりに出走してきたトウカイテイオーに小差で負けた。しかしトウカイテイオーは、この激走でまたダメージを蓄積。これを最後に引退することになる。そしてハヤヒデは最優秀4歳牡馬と年度代表馬を獲得。翌年はハヤヒデと、最優秀3歳牡馬を獲得した弟ナリタブライアンの天下になることが期待されたが…。

 94年(H6)は、ナリタブライアンが3冠馬となる。ハヤヒデも天皇賞・春と宝塚記念を勝ち、競馬界では有馬記念での兄弟対決が話題の中心であった。

 しかし…。この年は前年とは逆に猛暑だった。前年同様ハヤヒデは栗東で夏を過ごした。この頃だったか。「ハヤヒデは、3本目になるとしばらく動かなくなる」という話を聞いた。ハヤヒデは競馬が近くなると、まず馬場を数周したあと、坂路で大きめ(関東ではあまり言われないが、遅い時計の意味)を2本乗り、そして3本目にビシッと追い切りをかけられていた。その3本目を嫌がるようになったということの意味はあとで分かった。

 ハヤヒデはオールカマーを勝ったあと天皇賞・秋へ。いつものように好位を進んだが、いつも伸びるはずの直線で伸びなかった。それまで1着か2着しかなかったハヤヒデにとって初めての5着。ゴールを過ぎて、バックストレッチで下馬…。屈腱炎だった。数日後、兄弟対決が実現することなく引退が決まった。

 「岡部はパドックで騎乗した時に、異変に気がついていた」とあとで知人から聞いた。そのはずだ…と思った。3本目を嫌がった意味は、岡部が下馬した瞬間にはっきり分かった。

 1995(H7)年1月16日。京都競馬場でビワハヤヒデの引退式が行われた。もう走ることはないのに、ハヤヒデは競馬場に来たということで興奮ぎみだったが、引退式は予定通りに行われ変わったこともなかった。私は日帰りだったため、夕方には新幹線に乗った。翌17日の朝、テレビを見て凍りついた。午前5時46分、阪神・淡路大震災発生。

 震源が淡路島、震源の深さ16キロ、マグニチュード7.3。神戸市須磨区、長田区、淡路島の北淡町、阪神競馬場のある宝塚市の一部など、震度7とされた地域が多数。死者も6400人以上、住宅被害も51万棟以上。道路や鉄道なども損壊。書き切れないほど、深刻で、甚大な被害があった。

 栗東でも大きく揺れたが、馬に被害はなかったらしい。ハヤヒデも予定通り翌18日には北海道へ出発した。ただ、京都競馬は21日・22日の2日間中止となった。そして被害があったり、避難所になったりしていた阪神競馬場での開催はしばらくできず、京都で代替。桜花賞や宝塚記念は京都で施行された。

 ハヤヒデの主な産駒はハヤヒデ似のマイティスピード(現在6勝)、タケヒデ似で中山牝馬S2着のあるテンエイウイング(3勝)。どちらも本格化に時間がかかったぶん、まだ良くなる余地はある。

ビワハヤヒデ 1990.3.10生 牡・芦毛

競走成績:16戦10勝
主な勝ち鞍:菊花賞
天皇賞・春、宝塚記念
Sharrood
1993 芦毛
Caro
Angel Island
パシフィカス
1981 鹿毛
Northern Dancer
Pacific Princess