日刊競馬コラム
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日刊競馬で振り返る名馬
セントライト
(1978年・桜花賞)

◎驚異のローテーション

 
 レース柱(1.10MB)


 セントライト(父・ダイオライト)は日本初の三冠馬である。シンザンを語る際の枕詞は“セントライト以来”。菊花賞トライアルの「セントライト記念」で若いファンにも親しまれ、戦前の名馬の中では知名度が飛び抜けて高いのは当然だろう。

 セントライトは計12戦しているが、現役期間は短く、4歳の3月にデビューして10月にラストラン。特に10月のローテーションはすさまじく、21日間で4走している。当時の輸送に馬運車などというものはなく、「府中から横浜(根岸の横浜競馬場)まで9時間かけて曳いて行った」とか「レースの翌日に京都まで貨車で夜通し運んで中5日で出走」など、にわかに信じがたい舞台裏であった。

 1941年(昭和16年)秋といえば、日米開戦の直前で中国とは戦闘状態。そんな世相の中、セントライトは横濱農林省賞典四歳呼馬(現在の皐月賞)、東京優駿(レース名に日本ダービーがついたのは1950年・昭和25年の第17回から)、京都農林省賞典四歳呼馬(現在の菊花賞)を勝って、史上初の栄誉に輝いた。レベルを今日と比較する必要はない。2000ギニー・エプソムダービー・セントレジャーを範とする日本のクラシックにおける三冠馬第一号というだけで絶大な価値がある。加藤雄策オーナーも、それは百も承知だった。三冠達成後に厳しいハンデを背負わされることが判明すると、セントライトをあっさり故郷の小岩井農場に帰している。

 種牡馬としてのスタートも悪くなかった。オーライト(1947年・昭和22年の平和賞=現在の天皇賞・春)、オーエンス(50年の天皇賞・春)、セントオー(1952年・昭和27年の菊花賞)などの大レース勝ち馬を送り出し、種牡馬ランキングでも再三ベストテン入りを果たした。

◎小岩井農場

 セントライトにとって不運だったのは、1949年(昭和24年)、GHQの財閥解体命令によって規模縮小を強いられた三菱財閥が、経営する小岩井農牧株式会社におけるサラブレッドの生産を廃止したことである。以後、岩手県畜産試験場に移ったセントライトは繁殖牝馬に恵まれず、1954年(昭和29年)を境に種牡馬成績を明らかに落としている。栄光の名馬の相手を務めた肌馬に、アラブや中間種までいた不遇。セントライトの種牡馬としての前途は閉ざされてしまった。

 名門・小岩井農場(岩手県雫石)。戦前のサラブレッド生産界においては、千葉県成田の下総御料牧場と双璧といえる大牧場だった。宮内庁の管轄である下総御料牧場に対し、小岩井農場は前記した通りの民間施設。“小岩井”の名の由来は、黎明期に開墾事業に携わった小野義貞、岩崎弥之助、井上勝の頭文字を並べたもので、創業は1891年(明治24年)である。

 1899年(明治32年)に三菱の岩崎家の所有となり、ヨーロッパ式の牧場を目指して多品種の馬や牛を輸入した。サラブレッドの繁殖牝馬にビユーチフルドリーマー、フローリスカツプという現在にもつながる名牝系の祖。もちろん、セントライトの母・フリツパンシーもいる。生産馬からは8頭のクラシックホースが生まれ、セントライトが三冠、クモノハナが50年の皐月賞とダービーの二冠に輝いた。サラブレッドの種牡馬にはシアンモア、プリメロ。この2頭からはダービー馬が計7頭出ている。

 また、育成にも力を入れ、2つのオーバルコースと1つの直線コースがあった。坂のある直線馬場で鍛えたのは、現在の坂路調教を先取りした調教法といえる。

◎時を経て

 今回掲載の紙面は1978年(昭和53年)の桜花賞。勝ったオヤマテスコ(父・テスコボーイ)の祖母ミスフロントは、セントライトの代表産駒・セントオーの仔。しかも、オヤマテスコの母の父はセントライトの半弟・トサミドリ(父・プリメロ)。オヤマテスコの母・トサハヤテは、セントライトの母・フリツパンシー、そして小岩井農場の影響を強く受けている。三冠達成から37年、死後から13年。今から26年前の競馬ファンは、セントライトの名をクラシック優勝馬の血統表の中で確認している。

セントライト 1938.4.2生 牡・黒鹿毛

競走成績:12戦9勝
主な勝ち鞍:横濱農林省賞典四歳呼馬
東京優駿、京都農林省賞典四歳呼馬
ダイオライト
1927 黒鹿毛
Diophon
Needle Rock
フリッパンシー
1924 黒鹿毛
Flamboyant
Slip