日刊競馬コラム
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日刊競馬で振り返る名馬
アサカオー
(1968年・菊花賞)

希望の朝を予感させた
 追い込み馬アサカオー

◎混沌と活力の時代

 
 レース柱(537KB)


 アサカオーのデビューした1967年はカラーテレビの普及率1.6%。ミニスカート、グループサウンズ、フーテン、ヒッピー、男性化粧品MG5発売…。昭和元禄と呼ばれた年である。翌1968年には国際反戦デーの新宿デモに騒乱罪適用。「あしたのジョー」連載開始。1969年は安田講堂落城。アサカオーの引退した1970年は大阪万博、三島由紀夫自決、よど号ハイジャック事件。「あしたのジョー」連載終了。
 アサカオーが生まれてから引退するまでの1967年~1970年は、ベトナム反戦運動を契機に米国、仏国、韓国、日本など世界中で学生運動が盛り上がり、スチューデント・パワーと呼ばれた。米国、ドイツ、フランスなどと違い、日本では若者の反乱を力で封じ込めた結果、武力で対抗しようとしたグループが出現したのである。簡単に言えば軍国少年や青年だった大人たちの築いた価値観を、戦争が終わって生まれた世代が打ち壊そうとしたのだ。新しいものと古いものがぶつかり、時代は混沌としていた。しかし、どんな生き方を選ぼうと、明るい夜明けが予感された時代でもあった。

◎菊花賞で戴冠

 アサカオーは旧表記3歳時〔2.1.1.0〕。4歳になると京成盃2着、オープン2着、1着。そして宿命のライバル・タケシバオー、マーチスの、3強が初めて顔をあわせた弥生賞を後方から追い込んで勝ち、続く日本短波賞でもマーチスを破って1着。スプリングS、皐月賞はともにライバルの後塵を拝して3着。そしてダービーも3着。夏は休養にあてて、秋初戦のセントライト記念1着。京都盃2着。最強のライバル・タケシバオーが外国遠征で不在の菊花賞とはいえ、直線鮮やかな末脚で快勝し、ついに戴冠を果たしている。2着ダテホーライ、3着マーチス、6着タニノハローモア…。「一番強い馬が勝つ」といわれる菊花賞で、この世代の頂点に立ったのである。
 4歳暮れの有馬記念に駒を進めたアサカオーは、古馬強豪を抑えて1番人気。結果は不良馬場に脚をとられて伸び切れず6着敗退。
 旧表記3歳のデビューから4歳終了時点での成績を整理しておくと、着外はこの有馬記念だけで、〔7.4.4.1〕。ヒンドスタン産駒らしく、本質的に良馬場の中~長距離で持ち味の生きる馬だった。

◎明日は来なかった

 だれもがアサカオーの年だと思っていた5歳初めのAJCCで、モンタサン、スピードシンボリ、ニウオンワード、フイニイなどを蹴散らして快勝すれば、ファンの想いは確信と変わるのである。続く不良馬場の京王盃3着、サンケイ大阪盃2着と堅実に走り、迎えたのが古馬になって初めて3強が顔を揃えた天皇賞・春だった。怪物タケシバオーには完敗したものの、2着確保で面目は保った。ここまでの全成績は〔8.6.5.1〕。 残念ながらアサカオーがアサカオーだったのは、5歳の春、1969年4月29日の天皇賞までである。
 11ヵ月休養後、ターフに復帰した6歳のアサカオーは9、4、4着と負け続けた。かつての鮮やかな末脚は影を潜め、1970年6月28日の札幌アカシアS5着を最後にターフを去っていったのである。

◎大雪の京王盃

 わたくしがアサカオーについて一番思い出深いレースといえば1969年2月16日の京王盃だ。わたくし達のクラスは1/3は中退。1/3が留年し、1/3が卒業といった、行くも残るも、4年間のモラトリアムが解ける季節だった。授業には出なくとも、いつも20人ぐらいが群れ、なぜか仲の良いクラスだった。とくに緊密だったのが博打派の6人だ。そのうち卒業組の2人は故郷へ帰るという。わたくしたちは2月16日の正午にトキノミノル像の前で待ち合わせた。夜は競馬で儲けてお別れ会の予定だった。ところが、朝起きてみると一面の銀世界。東京では珍しい30センチ近い大雪が降った。競馬は中止と判断したわたくしは、やはり同じクラスの女性とのデートに切り替えたのだった。わたくしが行かなかったので会は翌日に変更。
 その席で「なんで来なかったんだ」と聞かれ、「あの雪で競馬をやったのか!」とわたくし。「競馬はな、台風以外に中止はないんだ」と一番競馬歴のある友人。
「最後方からすごい脚を使ったよなあー」
「モンタサンは58、メイジシローは51、アサカオーの61キロは重過ぎた」
「いや、プラス16キロ、太かったのが敗因だ」
「ドロドロの馬場だろ、あれじゃ走れない」
 見てもいないアサカオーのレース振りが今でも目に浮かぶし、京王盃は思い出深いレースなのだ。
 6人の仲間とはいまでも旅行を楽しむ関係だが、競馬場に行かなかった、わたくしのその日の行動は誰にも話していない。
 鉄の結束を誇った博打派仲間を裏切った大雪の日のデート。その相手が30数年経った今も、家でわたくしを待っているからである。

◎青春の馬アサカオー

 1970年の引退から10年、パーソロン、ネヴァービート、チャイナロック、テスコボーイなどの花形種牡馬とは比べようもなく、コマクサ、リョウフウを出した程度の寂しい種牡馬生活を終え、アサカオーは旅立った。でも、わたくしには忘れられない馬である。青春をともに歩んだのだから。

 「競馬が人生の縮図なのではない。
       人生が競馬の縮図なのだ」

 寺山修司は詠んだ。当時全盛期の大種牡馬ヒンドスタン産駒、480キロ前後の美しい体の線を持ったアサカオーは、高度経済成長の申し子だった。まだ市民権はないが、競馬というものがジワジワと滲み出て、いつ吹き上がるかといった時代状況だった。今は貧しくとも明日を胸に秘めた若者たちは、競馬場で己の姿をアサカオーに託したのである。
 前半はゆったりと流し、態勢が決まったと思った刹那、クサビを打ち込むゴール前の逆転に酔い、届かなくとも今度は差し切るに違いないと想像しながら次のレースを心待ちにする…。アサカオーは若者の描く“人生の縮図”そのものだったのだ。朝は来なかった。しかし、希望があれば人は生きていける。

アサカオー 1965.5.12生 牡・鹿毛

競走成績:24戦8勝
主な勝ち鞍:菊花賞
ヒンドスタン
1946 黒鹿毛
Bois Roussel
Sonibai
ナミノオト
1958 鹿毛
Borealis
ヴェルーラ