日刊競馬コラム
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日刊競馬で振り返る名馬
メジロマックイーン
(1991年・天皇賞・秋)

人と馬のあやなす
  長い長いドラマ

◎執念で紡いだ細い糸

 
レース柱(1.18MB)

 メジロマックイーンを語るときには父メジロティターンを、そしてその父メジロアサマから始めなければならないだろう。

 騎手としてすべての記録を塗り替えて頂点を極めた保田隆芳騎手が引退、調教師に転身したとき、尾形藤吉厩舎の屋台骨を支え続けた功績からメジロアサマを贈られた。尾形厩舎の同期には尾形四天王と呼ばれたミノル、ワイルドモア、ハクエイホウ、ハクマサルがいたために、必ずしもメジロアサマの4歳時(旧表記=以下同じ)の評価は高くなかった。しかし、古馬になったメジロアサマは天皇賞、安田記念、アメリカJCC、ハリウッドターフCC、函館記念を勝ち、有馬記念2着、宝塚記念2着など48戦17勝の成績を上げて種牡馬になったのである。

 メジロ牧場で種牡馬になったアサマだが、初年度は28頭のすべてが不受胎。引退前年の有馬記念を流感で取り消している。その時の抗生物質の影響か、授精能力が劣り“種無しスイカ”と揶揄されたのである。しかしオーナーの北野豊吉氏はアサマの種付けを続け、5年目にしてメジロティターンが生まれたのである。ちなみにアサマの種牡馬生活は13年、種付け頭数は126頭。種牡馬の平均受胎率は80%であるにもかかわらず、アサマの産駒はたったの19頭、受胎率15%だった。メジロの創始者豊吉氏の愛情と執念抜きに父子三代天皇賞のドラマは成り立たないのである。

◎奇跡の産駒ティターン

 メジロティターンが初めて重賞を勝ったのが1981年9月27日のセントライト記念である。同じ日に大尾形と称された藤吉師が亡くなった。この鞍上にいたのが親子2代に亘る弟子の伊藤正徳騎手だったが、レース後「なにもかも、すべてがスムーズだった。おじいちゃんが応援してくれた気がする」と語っていたのが記憶に残る。それはさておき、メジロティターンは翌年の日経賞を勝ち、5ヵ月後の秋の天皇賞をレコード勝ちしたのである。全成績〔7.3.2.15〕。それほど強かった馬ではない。だが、この天皇賞だけは豊吉氏の執念が乗り移ったかのように、ワンサイドのレースだった。

◎豊吉氏の遺言

 1967年にメジロ牧場を設立し、こよなく馬を愛し続けた北野豊吉氏は「私らのような年代の人間には天皇賞を勝つのが一番の名誉。ティターンの子で父子三代、天皇賞を勝ちたい」と言っていたが、1984年に亡くなり、これがメジロ一門の遺言となったのである。一代で北野建設を興した人物だけに、若き日には武勇伝のひとつや二つあったことだろう。だが、私の知る1970年代の北野豊吉氏は大黒様のような風貌の好々爺であった。ある日、メジロの馬から馬券を買おうとしていた私の隣で、北野豊吉氏は自分の馬から馬券を買っていた。200円ずつ5点だった。貧乏な私の1/5の額である。功成り名遂げた人物の品格の前に、目を血走らせた若造は己を恥じた記憶がある。

 またまた脱線気味だが、本題に戻そう。1969年メジロタイヨウ、70年メジロアサマ、71年メジロムサシが天皇賞を勝ってから11年後の1982年メジロティターンが久々に盾を手にしている。それから9年の歳月が流れ、1991年、1992年と連続してティターンの子、メジロマックイーンが天皇賞を勝ち、見事に豊吉氏の願いを実現したのである。

◎メジロマックイーンの戦歴

 アサマはスピードと瞬発力型だったが、距離の融通性があった。二代目ティターン(母の父スノッブ)は長距離でのスピード能力が優れていた。三代目のマックイーン(母の父リマンド)は総合力で優れていたが、スタミナ系の母系の影響か、フットワークの機敏さというか、代を重ねるごとに瞬発力は薄れてきたような印象がある。それはともかく、マックイーンは世界では東西ドイツ統一、ソ連一党独裁放棄。国内ではバブル崩壊、天皇即位の1990年のデビューである。

 2月3日、阪神・ダート1700の新馬戦を4歳上の兄デュレン(菊花賞、有馬記念)の主戦だった村本騎手が勝利に導いている。それから2、3着後、函館の古馬混合のダート1700を2、1、1着。帰厩後、やはり古馬との嵐山S(芝3000)を2着して、中2週という異例の臨戦過程で菊花賞を快勝している。鞍上はデビュー4年目の内田浩一だった。

 1991年3月10日。4ヵ月休養後、前哨戦の阪神大賞典を制し、父子三代の天皇賞制覇の夢がふくらむ4月28日を迎えるのである。単枠指定の白い馬は「このレースを勝つためにバトンタッチされた」と語る武豊騎手によって勝利を手繰り寄せている。口取り撮影時の武豊の手には空に向けて豊吉氏の遺影が高々と捧げられていた。

 続く宝塚記念は僚友メジロライアンの2着。京都大賞典1着、秋の天皇賞1位入線18着降着。ジャパンカップ4着、有馬記念2着で5歳を終えた。

 1992年は阪神大賞典1着、春の天皇賞連覇後、骨折で1年休養。

 7歳を迎えた1993年は大阪杯1着、天皇賞2着、宝塚記念1着、10月10日の京都大賞典をレコード勝ち後、父子四代天皇賞馬の夢を託されて引退している。全成績〔12.6.1.2〕。着外はたった“1度”である。

◎世紀の1位入線降着

 マックイーンのことを書く以上、もうひとつの“着外”を書かずに終わらせることはできないだろう。1991年10月27日、雨の天皇賞である。この日私は漫画家の小道迷子さん、元社員で編集者の通称穴戸と東京競馬場にいた。直線はマックイーンが独走。6馬身後方の2着争いは混戦だったが、同じく白い馬=プレクラスニーがわずかに二番手を粘り抜き、芦毛同士の1、2着だった。10-13の馬連馬券を10万も握っていた穴戸が狂気乱舞したのはいうまでもない。彼はシンボリルドルフの単勝に10万、20万単位でぶちこみ続けたように、自信のあるレースを太く買うのが好きな男である。「梅沢さん、配当なんか関係ないんですよ。馬券は当たるかあたらないかだけ。配当が安ければ額を増やせばいいだけなんです」と、堅い馬券を買わない私にノーガキを垂れたりするのである。

 「ね、ね、これで790円もつくんですよ。払い戻してきま~す」。

 「・・・・」。馬券を外した私と小道さんが、おとなの対応で引きつる笑顔を作るのを満足そうに見やると、ぴょんぴょん跳ねして穴戸は姿を消したのである。それから5~6分後には穴戸のいい泣きがあった。

 「だって見たでしょう、マックイーンは目の前でぶっちぎったんですよ。馬券のコピーを頼んだら、おねーさんがオメデトウって声までかけてくれたんですよ!」

 「あ~いやだ、もう馬券は止めます」。ルドルフがギャロップダイナに負けた1985年秋の天皇賞と同じように、すがるような目でその時と同じセリフを吐いたのである。私たち二人はおとなの対応で笑いを噛み殺しながら慰めたことはいうまでもない。

 ちなみに、あれから13年。穴戸はキングカメハメハで今春のNHK→ダービーを連覇して「大金を秋まで大事に寝かせます」などとメールを寄こしながら、ローカル競馬でも毎週馬券に手を出している。たぶん死ぬまで馬券を止めはしない男だろう。

 こうしてダントツの1番人気馬の6馬身差の走りは人々の記憶には残っても、記録上は抹消されたのであった。行った行ったのレースで楽勝したはずの馬が降着。凍りついた場内のファンと、プレクラスニー・江田照男騎手の笑顔のない勝利者インタビューが後味の悪さをもの語っていた。武豊が“府中魔の2000”の呪いに翻弄されたとはいえないだろうか。

◎サラブレッドの遺伝子リレー

 すべての生き物の大目的は種の保存繁栄である。丈夫で数多くの遺伝子のバトンを次の世代に渡す。これが生き物の究極の目的。しかし、生殺与奪を人間に握られているサラブレッドは違う。楕円の闘技場で勝ち抜き、また晴れて種牡馬となっても遺伝子の発現しだいでは命の保証はない。北野豊吉氏の愛情と意地と執念が生んだ父子三代天皇賞制覇によって、マックイーンによる父子四代の盾制覇は一メジロというより、いまや日本の競馬サークル全体の命題となったのである。1993年に種牡馬となったメジロマックイーンに課せられた使命はたった1頭でいい、天皇賞を勝つ馬を出すことである。産駒が天皇賞に駒を進めたら・・・。私たちは固唾を呑んでその瞬間を待つことだろう。

メジロマックイーン 1987.4.3生 牡・芦毛

競走成績:21戦12勝
主な勝ち鞍:菊花賞、天皇賞・春
宝塚記念
メジロティターン
1978 芦毛
メジロアサマ
シェリル
メジロオーロラ
1978 栗毛
リマンド
メジロアイリス