日刊競馬コラム
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日刊競馬で振り返る名馬
ダイナガリバー
(1986年・菊花賞)

◎復活・ダービー馬、
  しかし…

 
レース柱(893KB)

 「おいおい、またかよ」。18年前の11月9日、第47回菊花賞。馬場の発表は良のままだったが、降り始めた雨の中で、1頭の馬がゲート入りを拒否していた。今度は前走時よりさらにひどい。鞍上の増沢末夫騎手が何度うながしても、まるで子供がイヤイヤをするような仕草。ついに黒い目隠しで頭部をすっぽり覆われ、ぐるぐる引き回された末に何とか収まることができた。事態が軽微でなかったことは、JRAが11月30日までの出走停止処分を課し、ゲートの再審査を命じていることからも分かる。

 正直、“鼻白む”光景だった。何しろ天下のダービー馬である。秋緒戦のセントライト4着、叩いた後の京都新聞杯も4着。ただでさえ評価が怪しくなってきた上に、直前の稽古であっさり遅れ、右後肢の不安まで伝えられた。掲載のわが日刊競馬の紙面を見ても△印が3つと寂しく、それでも単勝5番人気は、GI勝ちの底力に対する期待度の表れだったのだろう。

 しかし、レースが始まると別馬のようなたくましさ。スローペースを無理なく追走する姿は貫禄十分だった。直線では上がり馬のメジロデュレンに差されて2着に終わったが、前評判を覆す復活劇を演じて見せた。春の主役・ダイナガリバー健在。とはいえ、相変わらずひと筋縄では行かない馬だった。

◎ダイナの時代

 トップブリーダーの社台ファームがクレジット会社のダイナースクラブと提携して1980年(昭和55年)に発足した社台ダイナースサラブレッドクラブ。会員制で、20口で1頭を共有するシステム(現在の社台サラブレッドクラブは40口で1頭)を採用した。安くないのは確かな品質の証。良血馬をそろえ、人気を博した。

 しばらくして、その“ダイナ”の馬が競馬場を席巻した。あの頃の競馬四季報関東版が近くにある方は、手に取って見てほしい。当時は東西別だったにもかかわらず、“ダイナ~”が30ページも占有している号がある。加えて、グローバルダイナのように“~ダイナ”という馬もいたから、少々露骨な馬名――批判もあったが分かりやすい――はいやでも目立ち、クラブの所属馬が一気に増えた時は、ダイナ抜きに競馬が始まらない感さえあった。

 そして、強かった。黄色地に黒の縦縞、袖に青い一本輪。中央競馬ファンなら知らぬ者はいない勝負服は、クラブ会員だけではなく、一般ファンも熱狂させた。ダイナカール、スクラムダイナ、ギャロップダイナ、ダイナコスモスらのGI級を含め、ダイナ冠のクラブ所属重賞勝ち馬は実に22頭。条件戦の中堅級にも馬券に貢献する馬が多く、80年代は“ダイナの時代”という一面もあった。

 ダイナガリバーは、そんな“ダイナ”の大将格。GIを2つ勝ち、年度代表馬にも選ばれている。しかし、冒頭のエピソードが示すように、どこかピントの外れたところのある馬だった。

◎2つの特徴

 競走能力とまったく関係ない部分で、ダイナガリバーには意識せざるを得ない大きな特徴があった。

 1つは、左顔の下半分、特に“鼻の周りが白く”なるほど大きくて曲がった流星。左右対称でないせいもあって、忘れがたい風貌となった。格好が悪いわけではない。どことなく親しみの持てるムードを醸し出して我々を楽しませた。

 もう1つは馬名。1726年にジョナサン・スフィフトによって書かれた『ガリバー旅行記』は、実際に読んだ日本人が多い海外小説のひとつである。絵本を見た子供は「小人の国」で身動きが取れなくなった巨人ガリバーの姿が目に焼きつくが、大人はその先の「馬の国」編を思い出してニヤリとしてしまう。馬にガリバーと名付けるあたりの微妙なセンス。馬(小説ではフーイナム)が人間(同ヤフー)より頭がいいってことか? そして、ダイナガリバーの戦歴・動向は、人を食ったような面が実際にあったのだから面白い。

◎記憶に残る馬

 父は社台ファームを不動の地位に導いたノーザンテースト。母のユアースポート(父・バウンティアス)は、すでにGII勝ちのカズシゲを送り出していた。社台の千歳牧場で生を得たダイナガリバーは、生まれた瞬間から注目を集めていた。

 入厩先は、関東の名門・松山吉三郎厩舎。デビュー戦(1985年8月4日・函館芝1200M)こそ2着に終わったが、折り返しの新馬(当時は同開催中は何回も使えた)をあっさり勝ち上がると、ソエで4カ月休んだ後の12月・ひいらぎ賞を快勝。年が明けて2月の共同通信杯も制して、予想通りにクラシックの最前線に飛び出してきた。

 皐月賞は2番人気。だが、ここで10着に敗れてしまう。予定していたスプリングS(大雪で順延)を使えなかった影響もあり、調子を落としていたとはいえ、とにかく見せ場も作れず馬群に沈んでいる。

 皐月賞で二ケタ着順の完敗を喫した馬がダービーで巻き返すのは難しい。今年のダービー2着・ハーツクライは皐月賞で14着だったが、その後に京都新聞杯(優勝)をはさんでの出走。過去20年を見ても、直行組のダービー連対馬であれだけ負けた例は他にない。

 そんな状況を跳ね返して、ダイナガリバーはダービーを勝ち、4歳馬の頂点に立った。秋は前記した臨戦過程を経て、年末の有馬記念に出てきた。評価は4番人気。1番人気は近況3着続きでもミホシンザンが推され、続いて三冠牝馬の4歳メジロラモーヌ、秋の天皇賞馬サクラユタカオー。これらをまとめて破り、しかもダイナの先輩・ギャロップダイナ(11番人気)を2着に連れてきて穴党を喜ばせている(枠連2-5は8100円)。

 ここで現役生活を終わっていれば、心証は違っていたかもしれない。5歳になってからは 4月の日経賞3着、10月の毎日王冠12着、そしてディフェンディングチャンピオンとして登場した有馬記念では見捨てきれないファンから5番人気に支持されたものの、結局14着のしんがり負け(完走馬中)に終わった。

 ローテーションで一目瞭然、古馬になってからのダイナガリバーは万全の体調でレースに臨むことはなかった。それによってダービー、有馬記念の勲章が錆びついたわけではないが、結果的に晩節を汚す形になってしまった。

 相撲いえば千代の山(栃若より少ない優勝6回)、野球なら原辰徳(名球会入りは果たせず)。素質を高く買われ、一定の実績を残しながら、不完全燃焼の感が最後まで拭えなかった。本当の強豪になりきれず、期待が高かったゆえの物足りなさを感じた。

 “ダイナ”が出走表をにぎわせた時代は去った今も、ネオユニヴァース、ザッツザプレンティ、ダンスインザムードなど、クラブの後輩達はGI戦線で大暴れ。ノーザンテーストの後にサンデーサイレンスを得た社台グループは、サラブレッドの生産・育成界においては“ガリバー企業”として独走状態で、社台レースホースは21年連続で馬主成績のトップに君臨している。

 最強とはいえずとも、社台のクラブ所属馬として立派に役目は果たしたダイナガリバー。馬券で相性が悪かった人は少なからずいたはずだが、それゆえに強く記憶に残った馬といえるだろう。

ダイナガリバー 1983.3.23生 牡・鹿毛

競走成績:13戦5勝
主な勝ち鞍:日本ダービー、有馬記念
ノーザンテースト
1971 栗毛
Northern Dancer
Lady Victoria
ユアースポート
1972 鹿毛
バウンティアス
ファインサラ