日刊競馬コラム
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日刊競馬で振り返る名馬
セイユウ
(1964年・アラブ王冠)

◎オーバーヤン五ノ七

 
レース柱(316KB)

 セイユウといえば、1995年(平成7年)を最後に廃止された重賞「セイユウ記念」で知られる伝説のアングロ・アラブ。その現役時代は約半世紀前で、1956年(昭和31年)デビュー、1958年(昭和33年)引退。アラブ同士では24戦21勝。1957年(昭和32年)の重賞3勝を含め、対サラブレッドでも5勝を挙げている。

 父はサラブレッドのライジングフレーム。1958年~60年(昭和35年)の中央競馬リーディングサイヤーで、57年、61年(昭和36年)~63年(昭和38年)が同2位という大種牡馬だった。ダービー馬は出せず、いわゆる大レースの勝ち馬は、天皇賞のオーテモン、桜花賞のトキノキロク、ミスマサコ、オークスのチトセホープぐらいだが、今でいうGII格の重賞勝ち馬が多く、トップの座を3年間守ることができた。

 セイユウと1つ下の全弟・シユンエイも父に大きく貢献している。ライジングフレームの全盛期だった昭和30年代はアラブとサラブレッドの賞金格差が小さく、しかもアラブのレース数が多かった。

 60年と95年の数字で比較してみよう。まず1着賞金。60年はセイユウ記念の前身・読売カップ70万円、タマツバキ記念50万円、天皇賞と有馬記念は300万円。95年は順に1700万円、1700万円、1億3200万円。JRAのアラブ競馬が廃止寸前の時期と単純に比べて、35年前の価値は約2倍だったと考えていい。また、レース数は55年がサラ1438に対してアラブは718でほぼ半数。95年は、アラブの主戦場が地方競馬になって久しかったにせよ、サラ3389、アラブはわずか42。アラブの競走は1%だけになってしまっていた。60年当時は重賞の「アラブ大障碍」「東京アラブ障碍特別」(各1着40万円)なども行なわれていて、中央競馬におけるアラブの注目度は決して低くなかった。

 セイユウの母は弟猛。サラ・レイモンドとアラブ血量100%の弟詠との間に生まれた血量50パーセントのアングロ・アラブである。セイユウの母の母・弟詠の母系をさかのぼると、太陽、師陽、コハイランシーと来て、あのオーバーヤン五ノ七にたどり着く。

 1913年(大正2年)にハンガリーから奥羽種馬牧場に輸入されたオーバーヤン五ノ七。その牝系を抜きに日本のアラブ競馬史は語れない。アラブの魔女・イナリトウザイ(南関東に転じて東京盃を1分10秒5のレコード快勝)。ミスハマノオー、ホクトチハル、ウルフケイアイ…。セイユウ、シユンエイ(読売カップ、タマツバキ記念を各2勝)以外にも、母方にオーバーヤン五ノ七の名があるアラブのスターホースは枚挙にいとまがなく、父系に入った分まで含めれば、その血脈の影響力は絶大といえる。

 血統だけを見ても、セイユウは“怪物”と呼ばれるにふさわしい素地が十分あった。そしてセイユウこそ、文句なしに日本史上最高戦歴のアングロ・アラブである。

◎サラブレッドに土

 セイユウはアラブに3回負けている。その内の1回が、何と初戦(56年7月15日、福島芝800Mで2着)。3戦目も3着に敗れているから、エンジンのかかりは遅かった。

 しかし、福島で3戦した後、9月の東京戦から快進撃が始まった。翌57年8月まで、この間22戦して21勝。68キロ・出遅れた5月のアラブSで不覚の2着以外は、取りこぼすことなく勝ちまくった。中には70キロの酷量を克服したレースもあり、19勝目は当時のアラブ界最高峰・読売カップ(7月7日・中山芝2000M)だった。61キロで2分5秒3。アラブとしては破格の記録内容である。

 この21勝は、アラブに敵なしを示しているだけではない。20勝目が七夕賞(7月28日・福島芝1800M)、21勝目は福島記念(8月18日・福島芝2000M)。3歳時(旧年齢表記)に強さを見せることができなかったデビューの地で、サラブレッドを続けて撃破している。確かにローカル競馬、5頭立て、3頭立てと頭数も少なかったが、ただのアラブではないことは明らかになってきた。

 対サラ3戦目、中山の京王盃オータム・ハンデは59キロを背負わされて4頭立ての4着に終わった。だが、続く特殊ハンデでは57キロで出走。56年の皐月賞馬・ヘキラク(60キロ)を制して2着となり、サラ一流馬とも互角に戦える手ごたえをつかんでいる。 セイユウのサラ重賞3勝目は、セントライト記念(10月6日・中山芝2400M)。舞台は得意の不良馬場となり、ダービー3着のギンヨク、オークス3着のセルローズを下している。

 その後の勝ち星は、11月のオープン、12月の読売カップ(当時は年2回、秋は関西で阪神芝2000M)、58年9月の特殊ハンデの3つだけだが、相変わらず人気は高かった。結局、読売カップを選んで出走を見送ったとはいえ、57年有馬記念のファン投票は3位。アラブの怪物は、人々の関心を大いに集めていた。

 最終戦は、58年11月23日の天皇賞・秋(7着)。このレースを含め、ラスト7戦を騎乗したのは渡辺正人騎手だが、後年、評論家として大井競馬場を訪れた際、栗原正光・元日刊競馬TMにこう語っている。

「アラブだと思って乗ったら、とんでもなかったよ。歩様は不恰好だったけどね。あの天皇賞だって、スタートしてすぐに引っ掛けられて脚を痛め、他の馬の迷惑にならないように外々を回ったんだ。それでちゃんと走ったんだから、まともだったら…」

◎抜群の繁殖能力

 セイユウはサラブレッドだったとしても一流馬に近い実績を残したが、その活力は種牡馬となって遺憾なく発揮された。絶倫。種付け頭数が半端ではなかったのだ。

 1959年(昭和34年)から三石・大塚牧場で供用され、初年度94頭。以後は毎年100頭を越え、1966年(昭和41年)には238頭の“世界レコード”を樹立した。1日に3回、4回は当たり前。ハードな種付けを難なくこなす姿は、ターフを去った後も怪物であることを示していた。

 ちなみに、66年の中央競馬リーデングサイヤー上位馬の種付け頭数を見ると、1位・ソロナウエー40頭、2位・ヒンドスタン45頭、4位・フェリオール37頭、5位・ガーサント69頭(3位・モンタヴァルは死亡)。あのタフなチャイナロックでさえ年間最高記録は134頭(1970年・昭和45年)だから、セイユウがいかにケタ外れだったがよく分かる。また、66年のセイユウの1着賞金獲得総額は2948万円。これは、サラブレッドのランキングの中に入っても28位に相当する立派な成績だった。

 今回は、そんなセイユウの主な産駒である1961年生まれのオーギが勝った1964年(昭和39年)のアラブ王冠の紙面を掲載した。オーギは読売カップを父と同じく2度制覇した活躍馬。64年当時は、中央ではアラブの競走が少なくなり始めた頃(サラ71%、アラブ23%、速歩6%)だが、まだアラブ競馬には存在感があり、この日もメインレースとして行なわれた。昔日の雰囲気を伝える資料としてご鑑賞願いたい。

セイユウ 1974.5.19生 牡・鹿毛

アラブ血量 25.00%
競走成績:49戦26勝
主な勝ち鞍:セントライト記念
ライジングフレーム
1947 鹿毛
The Phoenix
Admirable
(アア)弟猛
1949 鹿毛
レイモンド
(アラブ)弟詠