日刊競馬コラム
for SmartPhone

日刊競馬で振り返る名馬
マルゼンスキー
(1976年・朝日杯3才S)

伝説のスーパーカー
 速いマルゼンスキー

◎時代背景

 
レース柱(323KB)

 マルゼンスキーのデビューした1976年は、「戦後生まれが人口の半数を突破」「国民の90%が中流意識・70%が幸福感」「1972年の50%から、カラーテレビの普及率90%に」「マイカーが2世帯に1台普及」「ビクターがVHS方式VTR発売」「少年マガジン・チャンピオン・ジャンプが150万部で三つ巴」。  1977年の小生は30歳、子供二人。有珠山爆発で昼でも暗い噴煙の中を競馬とともに札幌から函館に移動したんだ。「僕って何」を読み、健さんの「幸福の黄色いハンカチ」に涙を流した。テレビでは子供がピンクレディーの「UFO」や「ウオンテッド」を見ながら踊っていたっけ。「日本赤軍のハイジャック」もこの年だったよな。豊かさに向かって日本中がしゃにむに突き進んでいたんだ。未だ自動車の免許を持たず、日本を離れたことのない小生だって、時代の制約から逃れられなかったのさ。自由と引き換えに時代に目を瞑り、歳月をやり過ごして来たものの、こんな小生だって時代とともにあったんだ。

◎ノーザンダンサーの出現

 1960年代後半から70年代にかけて、ノーザンダンサーの子供たちが瞬く間に世界を席巻した。「世界には二つの血統がある。ノーザンダンサー系とそれ以外である」。そう言われても頷くしかなかったノーザンダンサーの代表産駒が英三冠馬ニジンスキーである。狂気の天才舞踏家の名を頂く父と、バックパサーの娘シルとの間に生まれたのがマルゼンスキー(1974)である。  早来の橋本善吉氏の所有するこの馬は、外国で受胎して国内で生まれた、いわゆる“持ち込み馬”であった。1971年に馬の輸入自由化が施行されたが、内国産馬保護のため、外国産馬と持ち込み馬にはクラシック出走権がなかった過渡期だったことを覚えて置いていただきたい。

◎速い強い! 走りが違う

 マルゼンスキーがデビューしたのは1976年10月9日、中山の新馬戦(芝・1200M)だった。これを大差勝ちし、続くいちょう特別も9馬身差のワンサイド。当時の若者の憧れはロータス・ヨーロッパ、デトマソ・パンテーラ、ポルシェ911ターボ、ランボルギーニ・カウンタックなどのスーパーカーだった。まだ外国が遠くに感じられた時代で、一部の金持ちが外車に乗りだしたころ、スーパーカーは国産大衆車に乗る人々の夢だった。中野渡騎手の「外車の乗り心地」というコメントから、マルゼンスキーにスーパーカーの見出しが付いたのはごく自然のなりゆきである。

 3戦目の府中3才Sも断然の1番人気だったが、ヒシスピードにハナ差まで追い詰められる、生涯ただ一度の苦しいレースだった。もっとも、マルゼンスキーは前肢が外向していたこともあり、陣営は調教をセーブして、恐るおそる仕上げたためである。レース後、本郷重彦調教師が「なめすぎた! 馬に申し訳ないことをした」と吐き捨てるように話したことを、小生は昨日のように覚えているのだ。

◎素質の片鱗だけで引退

 4戦目の朝日杯3才Sは2着ヒシスピードを大差で屠り、従来の日本レコードを0秒4短縮する1分34秒4の驚異的タイムをマークしている。年が明けて4歳(現3歳)緒戦のオープン勝ち後、膝骨折で休養。3ヵ月後に復帰すると、オープン1着、日本短波賞1着、短距離S1着。この後は京都大賞典→有馬記念のローテーションを予定していたが、1年上の3強(トウショウボーイ、テンポイント、グリーングラス)との対決を果たせず、屈腱炎のために引退している。

 前肢の外向のために、いつも恐るおそる稽古を消化して、実戦でもセーブした走りだったマルゼンスキーは、素質の片鱗しか見せることはなかったのではないか。それでいて閃光のように輝きを放ったスーパーカーは、すべて1番人気での8戦8勝。世代を超えた骨っぽい対戦相手は日本短波賞で7馬身ちぎったプレストウコウ(菊花賞・セントライト記念、京都新聞杯、毎日王冠、NHK杯)ぐらいしかいない。驚くほどの実績があるわけではない。しかし、記録には残らなくとも、その走りは見た者に強烈なインパクトを与えた馬だった。

◎エピソード

 ダービーの時に「お金はいらない、大外枠でいい。ダービーに出させてくれ」。中野渡清一騎手が訴えた悲痛な叫びは多くのファンの心に響いた。ダービー馬の栄冠を手にしたラッキールーラより、この年度の最強馬はマルゼンスキーだと誰もが思っていたからである。残念ながら、人も馬も時代の制約から逃れることはできなかった。

 馬主の橋本善吉氏は初代若乃花が港湾労働者だった若いころに「相撲で勝った」というほど頑健な体の持ち主だった。相撲取りになっていたら大横綱になっていたかもしれない。東京オリンピックの年に生まれた善吉氏の娘は、聖火にちなんで聖子と名付けられ、スピードスケートと自転車競技でオリンピックに7度出場した橋本聖子さん(現参議院議員・2004年6月現在)である。サラブレッドと同じように、優れた遺伝子は間違いなく引き継がれていたのである。

◎偉大な血を証明

 種牡馬となったマルゼンスキーはサクラチヨノオー(ダービー)、ホリスキー(菊花賞)、レオダーバン(菊花賞・ダービー2着)、スズカコバン(宝塚記念)など数え切れないほどの重賞勝ち馬を出している。また、代を経ても母の父としてスペシャルウィーク(ダービー・天皇賞春秋・ジャパンカップ)、ウイニングチケット(ダービー)、ライスシャワー(菊花賞・天皇賞春2度)、メジロブライト(天皇賞春)、ロイヤルタッチ(皐月賞2着、菊花賞2着)など、たくさんの名馬の体内に能力を伝えているのである。

 パドックで体の線の美しさに思わず血統に目をやると、その多くにマルゼンスキーの名前があることに驚かされるのである。流線型であか抜けた馬体とスピード+スタミナ+パワー。サラブレッドとして必要なすべてをマルゼンスキーの血は伝え続けるに違いない。

 最近4年連続ブルードメアサイヤーランキング総合2位だが、1位のノーザンテースト(ノーザンダンサー直仔)の半数ぐらいしか頭数がいないにもかかわらず、この位置をキープしていることに、改めてその血のバックボーンが雄大であることを想うのである。  大人から子供まで日本中が憧れたスーパーカーと違い、ハイブリッド・カーが注目を浴び、キティちゃん、たまごっち、ポケモン、ガーデニング、アロマテラピーなど“マイブーム”が喧伝された1997年。8月21日、真夏の赤い太陽が静かに地平線に沈むように、マルゼンスキーは心臓麻痺のため、23歳の生涯を終えたのだった。

マルゼンスキー 1974.5.19生 牡・鹿毛

競走成績:8戦8勝
主な勝ち鞍:朝日杯3才ステークス
Nijinsky
1967 鹿毛
Northern Dancer
Flaming Page
シル
1970 鹿毛
Buckpasser
Quill