日刊競馬コラム
for SmartPhone

日刊競馬で振り返る名馬
グランドマーチス
(1975年・中山大障害・秋)

◎キンシャサの奇跡

 
 レース柱(420KB)


 グランドマーチスがハードル界で無敵を誇ったのは1974年(昭和49年)と1975年(昭和50年)。振り返ると、歴史の分岐点になった様々な出来事を思い出す。

 スポーツの世界に限っても、読売の連覇ストップ(V10ならず)とミスタージャイアンツ・長嶋茂雄の引退(74年)。続く75年は、お荷物球団と呼ばれた広島東洋カープがセ・リーグ初優勝。一方、長嶋新監督の読売は屈辱の最下位に終わっている。日本プロ野球の転換期となった2年間。筆者の印象に強く残っている。

 怪童・北の湖(現協会理事長)。本割・決定戦とも輪島の軍門に下って優勝は逃したが、74年名古屋場所後に“日の下開山”。21歳2カ月の史上最年少横綱昇進記録は未だに破られていない。この年、北の富士と琴桜の両横綱が相次いで引退。大鵬が土俵を去って3年が経った角界は、新たな局面を迎えつつあった。

 6番車・高橋健二(30期・愛知)が勝った千葉ダービー(75年3月25日)。もはや伝説となった500バンクの電撃ガマシは、三強(阿部道・田中博・福島正幸)王国の終焉を意味した。スピード競輪時代の幕開け。その後、阿部良二(岩手)、藤巻昇・清志兄弟らによる群雄割拠期を経て、いよいよ中野浩一(福岡)が登場する。ちなみに中野が35期の卒業記念レース決勝(松田隆文の2着)を走ったのは、高橋のダービー制覇の13日前。75年、競輪界は確実に動いていた。

 世界に目を向けると、モハメド・アリの復活劇だろう。ローマ五輪(1960年・昭和35年)ライトヘビー級の金メダリスト。プロデビューは同年10月、ソニー・リストンを7回TKOで破って世界ヘビー級王座に就いたのが1964年(昭和39年)2月。その後、兵役拒否による有罪判決でタイトルを剥奪され(1967年・昭和42年)、戦列に復帰したのが1970年(昭和45年)。しかし、ライバルのジョー・フレージャーに王座復帰を阻まれ(1971年・昭和46年)、74年時点で32歳。もう全盛期の力はないと思われていた。

 1973年(昭和48年)1月、衝撃のニュースが世界中に流れた。そのフレージャーが何と2回KO負けで王座から転落したのだ。ダウンすること実に6度。キャンバスに四つん這いになったまま、バネ仕掛けの人形のようにはね回るスモーキン・ジョー…。新チャンピオンの名はジョージ・フォアマン。政権奪取後、2度目の防衛戦では難敵のケン・ノートン(対アリ1勝2敗の強豪)も2回KOで下し、25歳新帝王は前途洋々だった。

 これでフォアマンがアリを倒せば、完全に世代交代となる。新旧両雄のヘビー級タイトルマッチは、74年10月30日、アフリカのザイール首都キンシャサで行なわれた。声援はアリに集まったものの、下馬評はフォアマンで断然。試合もフォアマンのボディー攻撃に必死に耐えるアリという構図で進行した。クライマックスはいつか。衛星中継のテレビ画面に張り付いた小学校4年生の筆者は、固唾を呑んで行方を見守った。

 その時は第8ラウンドにやってきた。一瞬の隙を突いて絶妙の連打。崩れ落ちたのは、若き王者フォアマンだった。東京12チャンネル(現テレビ東京)・杉浦滋男アナウンサーの独特な語り口が懐かしい。

◎偉業・中山大障害4連覇

 グランドマーチスは障害39戦で1回も落馬がない天才ジャンパー。と同時に、それなりの平地脚力も兼ね備えていた。重賞出走こそなかったものの、準オープン格の万葉Sを勝つなど平地で4勝。当たり前だが、障害馬も平地の脚があった方が楽にレースを進められる。もちろん、最後の追い比べにも影響する。

 少々極端な例を挙げると、10年ほど前に活躍したメジロワース。平地でGIIのマイラーズC(1990年・平成2年)を勝った馬だが、飛越が見るからに低く、いつ落ちるのかハラハラしたものだ。実際はあれでスピードを生かしていたわけで、競走生活を終えてみれば落馬ゼロ。陣営も心得ていて、障害で11勝を挙げながら中山大障害は1回も走っていない。飛越センスがないことと抜群の平地脚力を考えて、勝てるコースで最大限に能力を引き出したといえる。

 グランドマーチスの障害入りは73年。旧年齢表記でいうと5歳の3月だった。その入障緒戦は2着に敗れたが、障害馬として頭角を現すのに時間はかからなかった。2戦目で初勝利を挙げると、秋シーズンには関西の障害界では主力の一角と目された。それでも73年は障害〔3.5.3.2〕。最初から際立っていたわけではない。

 快進撃は翌74年から始まる。年頭から、いきなり3連勝。春の中山大障害ではモビールターフ以下を完封して初の重賞勝ちを収めている。巧みなジャンプで途中から先頭に立って押し切ったのだが、目を引いたのは最後の直線で見せた二枚腰。平地の脚も示している。

 5月の京都大障害3着、6月の東京障害特別2着。しかし、ここから次元が違う世界に入っていく。10月から翌75年5月まで、怒涛の9連勝。この間、中山大障害と京都大障害を秋春連覇して、68キロでのオープン勝ちも含まれる。

 連勝記録は休み明けで使った9月のオープン6着(72キロ!)で途絶えたが、11月の京都大障害を65キロで制すと、続いて大記録を達成した。

 その75年中山大障害・秋。先頭を走るグランドマーチスは終始楽な手ごたえ。のちの障害王・バローネターフ(3番手追走・中山大障害通算5勝)も、この時は貫禄の差を見せつけられて完敗している。主戦の寺井千万基騎手が負傷して、テン乗りでグランドマーチスに騎乗した法理弘騎手は「まともなら必勝。とにかく落ちないことをだけを考えて…。寺井君が一番喜んでくれるでしょう」。その存在は、すでにサークル全体の名誉となっていた。

 グランドマーチスは、ついに中山大障害4連覇を果たした。単勝配当は210、120、140、110円。初優勝の74年春を除くと、レース前から勝つのが決まっているかのような状態だった。

 5連覇を目指した1976年(昭和51年)、中山大障害の斤量規定が大きく変わった。それまでは『中山大障害勝ち馬は2キロ増』だったのが、『中山大障害1勝ごとに2キロ増』になったのだ。4連覇のグランドマーチスは60キロからいきなり6キロ増の66キロを強いられた。

 これはさすがに苦しかった。加えて、明けて8歳である。5カ月前は影も踏ませなかったエリモイーグルに、1秒差をつけられて2着に終わった。グランドマーチスはフジノオー(63年秋~65年春に中山大障害V4)を越えることができなかった。

 規定変更に関しては憶測も飛び交ったが、かえってグランドマーチスの神話性を増す結果を生んだ。この直後の京都大障害(67キロ)はレース中に左前肢第一指骨を骨折して10着。グランドマーチスは静かにターフを後にして、故郷の新冠・中央牧場に種牡馬として帰っていった。

◎3億円男

 改めて冒頭の紙面をご覧いただきたい。見出しに「三億円の飛越」とある。当時、この賞金にどんな意味と価値があったのか。

 75年、日本ダービーの1着賞金は4600万円。対して中山大障害は2800万円でダービーの60.9%。現在は1億5千万円と8000万円で53.3%。京都大障害(現京都ハイジャンプ)は1900万円で41.3%(現5000万円で33.3%)となっている。

 これだけ見ても、現在より障害に重きが置かれていたことが分かる。そして、日程も違った。現在の有馬記念は暮れの大一番として親しまれているが、当時の中山最終週のメインレースは中山大障害・秋。有馬記念はその1週前に行なわれていた。頭数だけなら現在の方が盛況だが、ステイタスは30年前が上回っていた。

 同時期のスターホースを横目に、グランドマーチスの総収得賞金は実に3億4338万円を記録している(75年12月に史上初の3億円馬)。74年の有馬記念馬・タニノチカラが2億1424万円、75年の皐月賞・ダービー二冠・カブラヤオーが1億7958万円。トウショウボーイでさえ2億8077万円、テンポイントでようやく3億2841万円である。

 ジャパンカップの創設前で、天皇賞は勝った後は再び出走できないルール。重賞の数も少ない。確かに今と状況は違うが、主な障害レースを勝ちまくれば、史上に残る平地の名馬以上に稼げることを証明したのがグランドマーチスだった。

 サラブレッドを改良して、より速い馬を作ってきたのが競馬の歴史。障害など邪道と考える人もいるだろう。まして、稼ぎ高が逆転してしまうとは…。

 ここではあえて詳述を避けるが、障害レースは現在もいろいろな問題を抱えている。ただし、賞金と伝統を伴った競走が用意されているのは紛れもない事実である。人間がサラブレッドに価値を与えることが競馬なら、障害は決して平地の添え物ではない。グランドマーチスが顕彰馬に選ばれた理由はそこにあると筆者なりに理解している。

グランドマーチス 1969.5.13生 牡・栗毛

競走成績:63戦23勝
主な勝ち鞍:中山大障害(春・秋)
ネヴァービート
1960 栃栗毛
Never Say Die
Bride Elect
ミスギンオー
1958 栗毛
ライジングライト
ハクレイ