日刊競馬コラム
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日刊競馬で振り返る名馬
タケホープ
(1973年・日本ダービー)

 
 レース柱(690KB)


 19戦7勝(ダービー、菊花賞、天皇賞・春)のこの馬が《時代を駆け抜けた名馬たち》52頭に選出されたのは、古馬一流路線は天皇賞(1度だけ)と有馬記念しかなかった時代のクラシックの重みと、老若男女、日本中を味方につけたハイセイコーの存在を抜きにしては語れないだろう。

◎時代背景

 タケホープの生まれた昭和45年は団塊世代のトップランナーの私が日刊競馬に入社した年である。新潟の山奥では1/3の少年が中学を卒業すると就職列車に乗って都会に運ばれた。高校を終えると2/3が大量生産、大量消費の高度経済成長を支える金の卵として都会に流入したのである。♪どこか~に故郷の香りをの~せて 着いた列車のなつ~かしさ 上野はおいらの心~の駅だ 挫けちゃならない人生が あのひ~ここから はじま~った♪

 井沢八郎の『ああ上野駅』にあるように、都会には若者たちがあふれていた。多くは夢破れて。

 6戦6勝のハイセイコーが地方競馬から中央競馬にトレードされたのは、ナンバーワンを目指して田舎から都会を目指した少年たちに、もう一度がんばろうという勇気を与えたのかもしれない。寺山修司は「ハイセイコーが勝った日に若者はカレーライスを三杯食べた」と詠み、ハイセイコーが少年マガジンの表紙を飾り、増沢末夫の歌う『さらばハイセイコー』が歌番組の上位を賑わした。

◎ライバル

 ハイセイコーは弥生賞→スプリングS→皐月賞→NHK杯と連勝を続けた。団塊世代の若者たちが仮託したダービーという頂点に向かって進むハイセイコーは時代のヒーローだった。

 一方、わがタケホープは4月28日の4歳中距離特別を勝って、なんとかダービーの切符を手に入れたのだった。ただ、東京コースでは8戦3勝、掲示板を外したのは1度だけ。追えば追うだけ伸びるインディアナ産駒。姉のタケフブキが前年オークスを勝っており、稲葉幸夫師と嶋田功騎手は調子が上向きなのと、距離延長に打倒ハイセイコーへ一縷の望みを捨ててはいなかった。なにしろ一週間前にナスノチグサでオークスを連覇したばかりで勢いがあったからだ。

◎ダービー

 5月27日、第40回ダービーの日は府中の森を通る風も爽やかな晴天だった。朝から競馬サークル全体に緊張感が張り詰めていた。ファンも今と違ってゴールするまで大声を発するものはいない。お祭りではない、調教師、騎手、厩務員。そこはすべての男たちがナンバーワンを目指した真剣勝負の場だったからだ。レースは2年前に1番人気ダコタで落馬した嶋田功騎手が左右の馬に押されて「体が浮き上がった」と言う1コーナーに1頭取り消しの27頭が殺到する。21番枠のタケホープは例によって後方を追走する。ハイセイコーは好位キープで流れは直線へ。直線坂下でハイセイコーが先頭に立った。

 NHK杯で力を振り絞って辛勝したハイセイコーは追い切りでも苦しがってヨレたのである。母系にカリムの血、休みないローテーション。ハイセイコーは負けると公言して日本中を敵に回した私は、ハイセイコーが先頭で坂を駆け上るのを見て目を瞑った。親も故郷も捨てた孤立無援の25歳、扶養家族2人。毎週麻雀で稼いだ2~3000円を握って、競馬場に行き、2~3倍に増やさないと生活が成り立たなかった。ハイセイコーの居る2枠は買っていなかった。十数万のファンの発する地鳴りのトーンが変わった。目を開けた。橙色と黄色の帽子がハイセイコーに並んだ瞬間だった。5-7の配当は9560円。馬券は取った。だが、心は弾まなかった。熱病のように巻き起こった英雄伝説はナンバーワンを目指した幾百万の地方出身の若者たちの夢だった。オールマイティなんかいるものか。「英雄のいる時代は不幸だ。英雄を必要とする時代はもっと不幸だ」。英雄の化けの皮を剥がしてやると執念を燃やしていたはずだったのに、長距離戦でのオンリーワン、ダービーの勝者タケホープの口取りを冷静に見つめる新潟の山奥から都会に出てきた自分がいた。ハイセイコーを英雄の座から引きずりおろした当事者の稲葉幸夫師、嶋田功騎手はその時何を思っただろうか。

タケホープ 1970.3.24生 牡・鹿毛

競走成績:19戦7勝
主な勝ち鞍:ダービー、菊花賞、天皇賞・春
インディアナ
1961 鹿毛
Sayajirao
Willow Ann
ハヤフブキ
1963 黒鹿毛
タリヤートス
ラインランド