日刊競馬コラム
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日刊競馬で振り返る名馬
シンザン
(1964年・菊花賞)

◎新しい時代

   
レース柱(604KB)


 1964年(昭和39年)。もう40年も前になるが、競馬ファンはもちろん、日本人にとって話題の多い年であった。

 何といっても、東京オリンピック開催と新幹線の開通(ともに10月)。金融引き締めによる企業倒産が多く、経済的には不況に陥っていて必ずしも明るい世相ではなかったが、この2大ニュースは、戦後から完全に立ち直って新時代に突入したことを示す象徴的な出来事だった。同年の11月には「所得倍増計画」の池田勇人首相が退陣。8年近くに及ぶ長期政権になる佐藤栄作内閣が発足している。また、自民党総裁(=総理大臣)を狙える地位にあった党人派の実力者・大野伴睦が世を去るなど、政治の世界も大きな転換期を迎えていた。

 当時の物価を振り返ると、アンパン15円、週刊誌50円、タクシー初乗り100円、ビンビール大115円、大卒公務員の初任給は平均で約2万円。わが日刊競馬はご覧の通り40円で、当然のことながら馬券一枚100円の価値は高かった。

 テレビCMで流れた「インド人もびっくり」が流行語となり、若者ファッションはアイビールック。この年のマスコミ・放送界を席巻した「愛と死をみつめて」は、原作本がミリオンセラー、ドラマ化されて青山和子の主題歌はレコード大賞を受賞。すでに斜陽化が始まっていたとはいえ、現在とは比較にならぬ影響力を持っていた映画館でも、人々を集めて大ヒットとなった。

◎史上2頭目の三冠馬

 いまや伝説のシンザンは、そんな時代背景のもとに生まれた三冠馬だった。生産の松橋牧場は小規模ながら、父は花形種牡馬のヒンドスタン、母ハヤノボリは重賞馬のリンデン、オンワードスタンを出し、文句なしの良血馬といえた(1961年産)。300万円は当時としてはかなりの高額取引。所属先は京都の名門・武田文吾厩舎だった。

 初戦は1963年(昭和38年)11月、京都の新馬戦(芝1200)。厩舎主戦の栗田勝騎手で1番人気に応えて快勝したが、武田師は当初からシンザンを厩舎のエースとして扱っていたわけではなかった。それは、若駒の登竜門・阪神3歳Sに同厩のオンワードセカンドを出走させ、シンザンを平場戦に回したことからも明らかだろう。

 勝ち続けながらレースぶりに圧倒感がなく、血統馬のわりにパッとしない稽古の動き。それでもシンザンは明け4歳になっても無敗の快進撃を見せ、ついに皐月賞を制覇。5月のオープン戦で初めて2着になったものの、ダービーではライバル・ウメノチカラをねじ伏せ、押しも押されもせぬ超一流の地位を築き上げた。

 ところが、秋緒戦のオープン2着、前哨戦の京都盃でも1馬身1/4差で2着。本番の菊花賞では、今では信じられないような印となってしまった(出馬表参照)。このあたりがエリートくさくないシンザンらしさだが、結果は2番人気で圧勝。1941年(昭和16年)のセントライト以来、史上2頭目のクラシック三冠馬になった。

 超特急・新幹線のごとく駆け抜けたシンザンによって、競馬史は塗り替えられた。くしくも幻の東京五輪は1940年(昭和15年・中止)。セントライト三冠の前年で、偶然とはいえ競馬の両雄の登場は新旧オリンピックとほぼ一致している。シンザンは、まさに時代の申し子として我々の前に現れた。

 翌1965年(昭和40年)は宝塚記念、天皇賞・秋(当時東京芝3200)、有馬記念と、現在のGⅠレースを3勝。古馬としても堂々の活躍ぶりだった。武田師に「ナタの斬れ味」「四つに組んだら日本一」と言わせたシンザンは、すべてのレースで連対を確保。史上最強馬と呼ばれ、惜しまれつつもターフを去った。

◎晩年の傑作・ミホシンザン

 動から静へ。引退後、浦河の谷川牧場で第2ラウンドが始まった。初産駒デビューは1969年(昭和44年)。スガノホマレ、シルバーランド、グレートタイタンなどの重賞多勝馬を輩出して、競走生活と同様に種牡馬としてのシンザンも期待に十分応えていたが、輸入種牡馬の層は厚く、クラシック馬は出せずに10年以上が過ぎていった。

 しかし、そのまま終わるシンザンではなかった。これまでかと思われた1981年(昭和56年)、ミナガワマンナが菊花賞優勝。そして、1985年(昭和60年)のクラシック戦線に、ミホシンザンを送り込んだ。

 1月にデビュー、無傷の4連勝で皐月賞制覇。ダービーは骨折で棒に振ったが、菊花賞も勝って二冠。翌年は未勝利に終わったものの、1987年(昭和62年)の天皇賞・春を制し、GⅠ通算3勝をマークしている。

 全レースでコンビを組んだ柴田政人騎手(現調教師)の懸命な騎乗ぶりとともに、記録以上に記憶に残る馬だった。ミホシンザンは、父シンザンに比べるとスマートで都会的な印象だったが、苦手の道悪以外では全戦3着以内の実力と勝負根性は、さすが父譲りといえよう。

 日本中央競馬会(現略称・JRA)が作ったポスター「シンザンを超えろ」のコピーは、ミスターシービー(1983年三冠馬)でクローズアップされ、続くシンボリルドルフ(1984年三冠馬)が実現する形になったが、さらに1年後輩のミホシンザン(1982年産)によって、我々はシンザンの存在を改めて確認した。自らを越える後継馬は生み出せなかったものの、最高傑作・ミホシンザンの誕生まで、シンザンは三冠馬の登場を許さなかったのだ。

 21年間の種牡馬“戦績”は、中央625勝、うち重賞49勝。内国産種牡馬としての功績も際立っていて、その後の生産界に大きな影響を与えている。

 競馬生活すべてにおいて、比類のない存在感を保ったシンザン。競走馬の最長寿記録も作った不世出の名馬は、1996年(平成8年)7月13日、35年の偉大な生涯を閉じている。

シンザン 1961.4.2生 牡・鹿毛

競走成績:19戦15勝
主な勝ち鞍:
牡馬三冠、宝塚記念、天皇賞・秋、有馬記念
ヒンドスタン
1946 黒鹿毛
Bois Roussel
Sonibai
ハヤノボリ
1949 栗毛
ハヤタケ
第五バツカナムビユーチー