日刊競馬コラム
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日刊競馬で振り返るGI
サクラバクシンオー
(1994年スプリンターズS)

◎日本の競馬近代史を反映する血統のロマン◎


レース柱(656KB)


 86(S61)年6月7日、札幌競馬場でサクラハゴロモ(父ノーザンテースト)という牝馬がデビューした。

 有馬記念、天皇賞を勝ったアンバーシャダイの全妹ということでサクラハゴロモは注目を集めていたが、2着に敗れた。その後骨折で休養し、翌87年1月中山の未勝利戦で復帰してまた2着。勝ったのは2月の東京の未勝利戦。ダート千四で、4コーナー先頭のブッちぎり勝ちだった。しかし400万条件を勝てないでいるうちにまた骨折。そのあとは1勝しただけで翌88年2月に引退した。

 『アンバーシャダイと違って根性不足』などと書いてある物がある。しかし本来は名馬アンバーシャダイと比較したらかわいそうなのと、2度の骨折が大きく響いたと考えるのが自然だ。それに馬体を見ていても、いつも非力な印象が強かった馬だ。

 ただ個人的には「繁殖入りしてどんな仔を出すのかな。名前だけでも忘れないでいよう」と思っていた馬だった。そしてサクラハゴロモが86年の天皇賞(秋)馬サクラユタカオーとの間に、89年に産んだ初仔がサクラバクシンオーである。

 父サクラユタカオーの3代母は、日本の競馬の礎とも言える偉大な牝馬スターロッチ(父ハロウェー)だ。スターロッチは60年に3(当時4)歳で有馬記念を勝った。3歳牝馬で有馬を勝ったのは、いまだにこの馬のみである。そして引退後は、一族からハードバージ、ウイニングチケット、ミホノブルボンなど数多くの活躍馬を輩出した。さらに、産まれてすぐに母サクラスマイル(3代母がスターロッチ)を亡くしたサクラスターオー(父サクラショウリ)の面倒を、高齢にもかかわらず見たという話は有名だ。サクラスターオーが有馬記念での故障がもとで早世することになったのは、皮肉とも運命とも言える。

 サクラユタカオーの血はイギリス色が強くて長めの距離が向いているように見えるが、ユタカオー自身は5代目までにナスルーラの3×4、ネアルコの4×5×5など4つのクロスがある。いわゆる気性のキツいタイプで、距離はあまりこなせなかった。そのかわり卓越したスピードを持っていて、名マイラーとして名を残すことになった。

 この血に北米色の強いノーザンダンサー→ノーザンテーストのラインが配合されてサクラバクシンオーが誕生した。ハイぺリオンの4×5、ネアルコの5×5のクロスが発生して距離はこなせそうなイメージで、現実に同配合のサクラキャンドルが95年当時芝二四のエリザベス女王杯を勝った。平均的に二千前後の距離を得意としている例は多い。それなのに…である。

 ここまで簡単に書いたが、とにかくサクラバクシンオーという馬は、日本の競馬の近代史をたどるような馬だ。彼はスプリント界の歴史の1ページを創っていくことになる。

◎スプリンターズSを連覇した驚異のスプリンター◎

 サクラバクシンオーは92年1月にデビュー。同期にはミホノブルボン、ライスシャワー、シンコウラブリイ、ニシノフラワーなどがいる。

 通算21戦11勝。7勝が千ニ、4勝が千四である。千ニ・千四の通算成績は〔11、0、0、1〕となっていて、唯一の着外は92年、同期の桜花賞馬ニシノフラワーが勝ったスプリンターズS6着だった。また対照的に千六・千八は〔0、2、1、6〕。94年安田記念4着はあるが、さすがに1度も勝ったことはなかった。

 短距離路線を歩むきっかけになったのは、皐月賞を目指して出走したスプリングSで3秒5も差をつけられて大敗したことだ。その直後のクリスタルCでは1番人気にこたえて1着。初重賞制覇を果たした。

 92年12月には、スプリンターズSに挑戦する。3番人気だったが、先行争いを演じた結果6着に敗退。しかしバクシンオーは脚部不安を抱えていて、レースぶりにも一本調子な面があった。それを思えば、6着なら健闘である。ちなみに勝ったのはニシノフラワー、クビ差2着がヤマニンゼファーである。バクシンオーはこのあと長い休養に入った。

 復帰したのは翌93年10月。バクシンオーは休養を境に、一本調子の逃げ馬から脱皮して、ハナにこだわらなくなっていた。オープン特別を3戦して12月にはまたスプリンターズSに出走した。1番人気は前年2着のヤマニンゼファーで、5(当時6)歳のこの年には安田記念と天皇賞・秋を勝ち、すっかり円熟味を増していた。4(当時5)歳勢のバ クシンオーが2番人気、ニシノフラワーが3番人気だった。そして勝負もこの3頭で決した。1着バクシンオーでタイムが1分7秒9。2着ヤマニン、3着ニシノ。1着と2着の差が0秒4・2馬身1/2だが、この差は決定的だった。バクシンオーが道中3番手、ヤマニンがマークする形の4・5番手。ヤマニンが必死に追っても届かない。バクシンオーはアッサリとスプリント界の王座を奪取した。

 凄かったのは翌94年。ダービー卿1着→安田記念4着→毎日王冠4着だが、当時は高松宮記念がまだ二千の高松宮杯だったため、スプリント系の馬には秋まで活躍の場がなかった。

 バクシンオーの真価が発揮されたのは、まずはスワンSである。エイシンワシントンが前半3F33秒7で飛ばす。18頭立ての17番枠バクシンオーはそれを3・2番手ピッタリマークから抜け出して勝った(2着ノースフライト)。そして計時されたタイムは1分19秒9。千四で20秒を切った驚異的なレコードだった。

 そのあとバクシンオーは、マイルCS2着(1着ノースフライト)を経て3年連続でスプリンターズSに出走する。この時初めて500キロを超して504キロという体重で出てきたバクシンオーだが、これによって推進力がアップしたのは間違いない。この年から国際指定されたスプリントSには外国馬も参戦していたが、パワーアップしたバクシンオーには脅威でもなんでもなかった。

 前年は前半3F33秒2で展開して勝ちタイムが1分7秒9だった。この年は逃げ・先行型が数頭いて、熾烈な先行争いを繰り広げ前半が32秒4。バクシンオーはそれを見ながら好位追走。直線に向くと馬場の真ん中を通って先頭に立ち、上がり34秒4(生涯最速)で後続に4馬身差をつけてフィニッシュ。勝ちタイムは1分7秒1。またしても驚異的なレコードであった。

 こうしてスプリント界の歴史に強烈なインパクトを残して、サクラバクシンオーは現役を引退した。

◎どこまでも名馬の道をバクシンする◎

 サクラバクシンオーは、種牡馬としても元気に、タフに活躍する。産駒は仕上がり早として定評があって、現在の需要傾向にピッタリ合う種牡馬であることが強みだ。ここ数年は100頭以上の繁殖牝馬に種付けをしている。

 代表産駒は、同い年のショウナングレイス(父ラッキーソブリン)との間に産まれた牡馬ショウナンカンプ(98年生まれ)。ノーザンダンサーの4×4、ネヴァービートの4×5、ナスルーラの5×5という3つのクロスを持つショウナンカンプは、02年高松宮記念で潜在的なスピードに任せて爆走、逃げ切り勝ちして父の株を上げた。

 牝馬では、桜花賞馬シスタートウショウの姪シーイズトウショウ(00年生まれ)。03年桜花賞2着、04・05年には函館スプリントSを連覇。この連覇は父仔で重賞(父はスプリンターズS、仔は函館スプリントSと違うレースではあるが)を連覇した快挙ということで話題になった。

 引退して10年以上たっても、バクシンオーの勢いは止まらない。

サクラバクシンオー 1989.4.14生 牡・鹿毛

競走成績:21戦11勝
主な勝ち鞍:スプリンターズS
サクラユタカオー
1982 栗毛
テスコボーイ
アンジェリカ
サクラハゴロモ
1984 鹿毛
ノーザンテースト
クリアアンバー