日刊競馬コラム
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日刊競馬で振り返るGI
マイネルコンバット
(2000年ジャパンDD)


レース柱(691KB)


 記憶と記録。競馬に於いては最も重要なファクターであると思う。この企画自体は、どちらかと言えば記憶側に振った文章で、記録としての馬柱と写真が添えてある。

 このページを上から下までご覧頂くとお気づきになるかもしれないが、今回のお題の主役であろうマイネルコンバットの写真が1枚しかない。担当の田所、地方編集部の星野が週刊プレイボーイなどが散乱する当社の書庫を、必死になって捜索したものの、結局見つかったのは本馬場入場の1カットだけである。前走、名古屋優駿の写真もあるにはあるのだが、ゴール前はフレームから切れていて、本馬場入場は厩務員のおっちゃんが思いっきり被っていた。

 本来、勝ち馬であるマイネルコンバットのレース写真はあるはずだ。いや、確かに撮ってあるはずだ。その疑問は、当社デザイン担当の田代が、あっさり回答。「写真が真っ黒くろすけ」だったのである。その、素晴らしいゴール写真を撮ったカメラマンが、何気に筆者であることは内緒である。と言うわけで、今回はビジュアル的記録と言う視点を欠いたまま、粛々と文字による記憶をご覧になって頂きたい。

 まず、2000年ジャパンダートダービーに至る過程をおさらいしよう。

 前年の1999年第7の月。ノストラダムスの予言により、これまで秋に行われていたスーパーダートダービーを発展解消。名古屋優駿(GIII)と併せ春の4歳戦を形成する。翌2000年、新設された兵庫チャンピオンシップ(GIII)と併せ、春の4歳3連戦が組まれることとなった。ちなみに、当時『春のダート3冠』という表記がそこいらじゅうの媒体に書かれていたが、『3冠』というのはすべてがGIで行われるべきであり、違和感があったことを憶えている。また、すぐ旭川でグランシャリオカップ(GIII)が行われ、むしろ一部4連戦といった方が的確かもしれない。

 まず、園田競馬場で行われた兵庫チャンピオンシップは、それまでダート2戦を大差勝ちしていた、マイマスターピースが1番人気に推された。しかし、レースは笠松のミツアキサイレンスが粘る北海道のタキノスペシャルを豪快に差し切った。ミツアキサイレンス自身は、笠松でも評判の高かった馬だが、同期にレジェンドハンターが居たこともあり、人気面ではその影に隠れがちな存在だった。

 続く名古屋優駿は、世界に羽ばたく超大物アグネスデジタルが登場。昭和53年に樹立された名古屋1900メートルのレコードタイムを22年ぶりに1秒4更新する圧勝だった。2着はマイネルコンバット。ちなみにこの時アグネスデジタルは3番人気。1番人気に推されたのはレギュラーメンバーで、この秋、盛岡のダービーグランプリ(GI)を圧勝しているが、この時は熱発明けで今ひとつだった。

 そんなこんなで、ジャパンダートダービー。名古屋優駿圧勝を受けて、アグネスデジタルが1番人気に支持された。2番人気には共同通信杯2着、その前のダート戦黒竹賞勝ちを買われたのかジーティーボス。今思えば不思議だ。3番人気は5戦4勝、羽田盃を制したイエローパワー。4番人気に北海道のタキノスペシャル。マイネルコンバットは5番人気だった。

 今でこそ2分3秒台での決着も珍しくない、大井2000メートルだが、この当時は今よりも路盤がやわらかく、砂も豊富であったため、スピードに勝る中央馬といえども、2分5~6秒台というところだった。名古屋優駿は重馬場で、しかも砂が薄く時計が出やすい馬場だった。この点、早くに気づけばアグネスデジタルの惨敗は予想できたかもしれない。さすがに本紙予想は危ういと見たか、▲に留めている。

 ゲートが開いてサザンスズカが落馬、競走中止。羽田盃馬イエローパワーの軽快な逃げは、61秒7のハイペース。番手にコンバットハーバー、リガメエントキセキと続き、アグネスデジタルは4番手。この隊列のままレースほとんど動くことなく流れた。レースが動いたのは、ブラウンシャトレーとジーティーボスが仕掛けようとした3コーナー手前。大西騎手がマイネルコンバットにゴーサインを出す。タキノスペシャルの井上騎手は、速い流れでいずれ前が潰れると読んだか、一瞬仕掛けを躊躇した。これがイエローパワーを捕まえられたかどうかの分かれ目となった。

 直線を向いて、逃げるイエローパワー以外は後退。内埒沿いの1頭分だけ砂が掘れて軽くなったコースを、距離ロス無くゴールへと導く、石崎隆之騎手。マイネルコンバットは末脚をグングン伸ばし、一完歩毎にイエローパワーに迫る。タキノスペシャルも、その後を追いかけるが、差はつまらない。アグネスデジタルは深い砂にもがき、そして馬群に沈んでいった。ミツアキサイレンスもそこから抜け出せずにいた。

 ゴール板前、わずかクビ差、マイネルコンバットが差し切った。タキノスペシャルは『一瞬』に泣き、半馬身差の3着。やはり勝負は一瞬の刹那だった。

 取材ノートから、大西騎手の談話。「のタイトルを取れたことはたいへん嬉しい。今日は3角で手応えが抜群に良かった。この馬はダートを使うようになってから、本当に走るようになった。今日ここでを獲ったことで、それを証明した。これから先、ダートで活躍していくのが楽しみです」

 当時は、レースの写真を撮って、口取りの最中は談話を拾いに行っていた。だから、口取りの写真もなかったよなぁ、と今更思い出した。

 「これから先、ダートで活躍していくのが楽しみです」という大西騎手の談話でふと思い出した。マイネルコンバットって、その後どうしたっけ? 少なくとも「ダートで活躍」した記憶がないので、記録を調べてみた。その後マイネルコンバットは、ダービーグランプリ12着、ジャパンカップダート13着、東京大賞典16着と低迷し、結局ジャパンダートーダービー以降ダートで10戦して、すべて着外。マーチステークス16着を最後に障害入りし、初戦は落馬で競走中止したものの、2戦目5着、3戦目には23ヵ月振りの勝利を挙げている。続く、福島ジャンプステークスで2着となったが、両前の屈腱炎が酷く、2002年8月14日付けで現役を引退、乗馬に用途変更された。

 2着イエローパワーも、ジャパンダートダービーの次走、スーパーチャンピオンシップ1着の後は慢性の脚部不安に苦しみ、不振続きでついに未勝利。2003年4月24日のマイルグランプリ7着を最後に、現役を引退した。

 3着のタキノスペシャルは、その秋に種子骨を骨折し長期休養。その後高岡調教師と共にシンガポールに移籍。ゲート試験を受けられるまでに回復した矢先の昨年4月8日、腸ねん転により彼の地でこの世を去っている。

 皮肉にも、このレースで馬群に沈んだ世界のオールマイティー馬アグネスデジタルや、阪神大賞典チャレンジャーとなったミツアキサイレンス等の、その後の活躍、ファンの認知とはあまりにも対照的な人生、というか馬生ではあるが、ならばせめてレース写真、勝負の一瞬の記録ぐらいは失敗しないで、しっかり撮って置くべきだなという自戒の念も込めて、今年のジャパンダートダービーはしっかりと写真に撮ることを心に誓った筆者であったのでした。

マイネルコンバット 1997.3.14生 牡・鹿毛

競走成績:29戦4勝
主な勝ち鞍:ジャパンダートダービー
コマンダーインチーフ
1990 鹿毛
ダンシングブレーヴ
Slightly Dangerous
プリンセススマイル
1987 栗毛
ノーザンテースト
サムババ