日刊競馬コラム
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日刊競馬で振り返るGI
タニノムーティエ
(1970年東京優駿

悲しい眼をした馬
 タニノムーティエ


レース柱(505KB)


 昨年、JRA50周年記念の「時代を駆け抜けた名馬たち」52頭の中に皐月賞、ダービーを制した二冠馬ヒカルイマイやタニノムーティエがいなかった。JRAに準じた「日刊競馬で振り返る名馬」にもこの両馬や、ハイセイコーとタケホープを有馬記念で一蹴したタニノチカラ(天皇賞、有馬記念)が選ばれていなかった。去るもの日々に疎し。すべては歴史の彼方に忘れ去られるとしても、せめてリアルタイムに取材したり、馬券を買った記憶のある者が書きとめておくのがスジというものだろう。
 その時代の真実は瞬間でしか表現できないものなのだ。膨大な一滴の瞬間によって時代は構成されている。これは一滴の私である。

●アロー完敗に衝撃
 ムーティエの切れ味

 もの心ついたころから「人間とは何か」。この想いに憑かれた自分と、「理論に純化しようとする」友人たちとの間に対立が生じた。「どちらが正しいかは歴史が検証するしかない」。何ヵ月かの議論の末に出た結論だった。袂を別ったとはいえ、1968年の国際反戦デーの新宿騒乱罪や1969年の東大闘争で幾たびかともに死線を越えた友人たちは獄中にいた。
 一流出版社のコネ入社が決まっていたが、忸怩たる思いで1970年3月22日、私は中山競馬場にいたのだった。
 “矢の超特急”アローエクスプレスがダイナミックな走りでスプリングSを勝つシーンを見るために。
 1番人気は2年前のダービー馬、タニノハローモアで記憶に新しい、ハードトレで鳴らす谷水信夫氏=カントリー牧場出身のタニノムーティエ。通算成績は〔9、1、0、1〕。北海道ですずらん賞、はまなす賞を勝ち、帰厩後のデイリー杯3歳S、京都3歳S、阪神3歳S、きさらぎ賞、弥生賞を差し切り、9ヵ月で11戦。5連勝でスプリングSへ駒を進めてきた関西馬代表である。
 一方東の大将アローエクスプレスは姉にフアラデイバ(オークス2着)、ミオソチス(オールカマー、東京盃、オークス3着)を持つ良血で、デビューからすべて1番人気で6連勝。新馬(中山・芝1000)を58秒9、朝日杯(中山・芝1600)を1分36秒2と2度のレコード勝ちの快速馬だ。
 パドックで450キロのタニノムーティエと530キロのアローエクスプレスを見比べると、なにもかもが対照的だった。

☆アローエクスプレス
・ヘラクレス型の鹿毛
・闘志満々のスポーツマン
・睥睨する眼差し
・自分中心の恐れを知らない先行馬

☆タニノムーティエ
・きゃしゃな体型、四白流星の栗毛
・文学少年の雰囲気
・伏目がちの悲しい目
・他者を目標にする追い込み馬

 逞しい男とか細い少年…。
 どう見ても外見的にアローエクスプレスが負けるわけはないのである。

 当時の日刊競馬の印を見てみると、全員タニノムーティエに◎だが、ゴール100m手前で白井の若大将・柴田政人が完璧に乗りこなしたアローエクスプレスが抜け出す。もう負けようがないと確信した刹那、タニノムーティエが襲いかかる。36秒台の上がりなら優秀だった時代に、タニノムーティエはなんと34秒台の末脚を使ったのである。今なら30~31秒台の感覚だろう。差は3/4馬身だが、我がアローエクスプレスは獣に襲われた水牛だった。

●東西対決の前哨戦
 ムーティエの2勝1敗

 スプリングSから21日後、自分を裏切れなかった私は、新聞の求人募集で入社した日刊競馬で4月12日の皐月賞を迎えたのだった。
 今考えればスプリングSで勝負付けは済んでいたのである。だが、アローエクスプレスと私にとって、たった1度の敗戦が納得できなかったのである。30数年後のいま思えば、願望を現実に重ねようとした若者の驕りなのだろう。
 重馬場の皐月賞は、柴田政人から加賀騎手に乗り替わったアローエクスプレスが三角でいったん後方に下げて外に持ち出すと、四角では前の馬をひとまくりして直線先頭に立つ。直線外からタニノムーティエがジワジワと迫り、頭差入れ替わったところがゴールだった。
 スプリングSの末脚は奇跡であり、奇跡は2度起きないと思っていたが、タニノムーティエは相手に勝とうとする並外れた“意志”を持った馬だった。「タニノムーティエは古馬だ」という話がまことしやかに語られたのもこのころだ。

 5月10日ダービートライアルのNHK杯は不良馬場。スプリングSは3/4馬身、皐月賞が頭。差は詰まっている。ましてタニノムーティエは調教中の外傷で2日稽古を休み「完調ではない」と言う。アローエクスプレス単勝支持率42・8%、タニノムーティエ39・4%。2頭の対戦で初めてアローエクスプレスが1番人気を得た。レースも四角先頭からアローエクスプレスが危なげなく押し切り、2馬身半後ろのタニノムーティエは、からくもダテテンリュウをハナ差交わしての2着だった。

●アロー東の願望を一身に
  巻き返す西のムーティエ

 「こんな面白いものを白日の下に晒してはいけない。競馬は世界に害を与えない。しかし、人々は人生を切り売りしながら競馬場で希望を買うのだ。そこでは叶うことのない10数万の希望が毎日生まれ、消えている」
ノートになぐり書いた文章に私の当時の気分がうかがえる。
 それはさておき、5月24日ゴンドラにある記者席でダービーを迎えた。10万の群集の発する呻きが、ジャズ喫茶の大型アンプから放たれる低音のように、地鳴りとなって腹に響く。
 単勝支持率はアローエクスプレス41・8%、タニノムーティエ24・9%。これがファンの当時の空気を如実に示した数字である。
 東西のライバル対決、それぞれのファンの思い入れ…。だが、膨れ上がった人々の東西対決の期待とは裏腹に、レースはあっけないものだった。好位でもがくアローエクスプレスを尻目に、タニノムーティエは目標を新たなライバル、ダテテンリュウに切り替えていた。まるでスローモーションを見るような、1ハロン続いた2頭の熾烈な競り合いだった。ゴール前では振り絞るようなタニノムーティエの執念がダテテンリュウを押さえた。1/2差で2冠を制したのである。こうなれば、ファンの興味はライバル対決ではない。タニノムーティエがシンザン以来の3冠馬になるかどうかだけとなったのである。

●ムーティエのど鳴り発症
 魂だけは真っ先にゴール

 3冠獲りの秋緒戦は9月20日朝日CCである。だが、タニノムーティエは最後方を追走しただけで、8頭立て8着。10月25日の京都盃でも9頭立て6着。まるで春の輝きを失っていた。夏の放牧中、雨にうたれたことが原因か、のど鳴り(喘鳴症)に罹っていたのである。11月15日の菊花賞でもさすがに人気は下がったが、それでもファンは見捨てず、5番人気だった。タニノムーティエが三~四角で一気に進出した脚を今でも忘れることはない。場内は沸いた。
「やっぱりタニノムーティエだ!」
 一瞬誰もがそう思った。執念からほとばしり出た魂がゴールへ突き進んだ気がする。だが、タニノムーティエの肉体は取り残されていた。16頭立て11着。勝ったのはダテテンリュウだった。

馬柱 ●勝ち負けなどありはしない
 残るのは無機質の文字だけ

 1991年2月9日、故郷のカントリー牧場でタニノムーティエは老衰のため死亡。産駒にハローキング(東海桜花賞、名古屋大賞典)、タニノレオ(京都3歳S)、タニノサイアス(京都3歳S、紅梅賞、桜花賞4着)、セブンムーテ(東海ダービー4着)、タニノガルフ(中津記念)がいる。
 しかし、テイタニヤ(桜花賞、オークス)、リーゼングロス(桜花賞)、ノアノハコブネ(オークス)をはじめジュウジアロー、リードワンダー、アグネスプレス、イーストボーイ、タケノコマヨシ、アローボヘミアン、スナークアロー、アローバンガード、キッポウシ、キンセイパワー、ブルーダーバン、ワイエムアロー、ファイアーダンサー、エイシンリゲイン、フラストメア、ニホンピロマーチ、ダイシンプリンスなど数多くの重賞勝ち馬を送り出した現役時代のライバル、アローエクスプレスと比べると種牡馬としての争いでは競走時代との立場を入れ替えている。
 アローエクスプレスとタニノムーティーの競走成績や産駒を比較をしてみたが、熟成した時が共有した思い出を郷愁に変えたのだろうか。不思議なことに年月とともにひいきも敵役もなくなってしまっている。なに、人間の関係に勝ち負けがないように、過ぎてしまえば彼らに優劣などありはしない。ただ人々の思い入れの中に、さらに数10年が過ぎれば、単なる文字の世界に存在するだけなのである。〔文中・敬称略〕

タニノムーティエ 1967.5.9生 牡・栗毛

競走成績:18戦12勝
主な勝ち鞍:阪神3歳ステークス
皐月賞、東京優駿
ムーティエ
1958 栗毛
Sicambre
Ballynash
タニノチェリ
1963 栗毛
ティエポロ
シーマン