日刊競馬コラム
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日刊競馬で振り返るGI
クシロキング
(1986年天皇賞(春))

◎岡部幸雄の時代


レース柱(381KB)


 今年(2005年)の皐月賞はディープインパクトの独り舞台だった。4戦無敗、いずれも楽勝。「サンデーサイレンスの最高傑作」という声があるほどで、「シンザン、ルドルフ級。歴史を書き換える馬」と早くも期待は高まる一方だ。

 その歴史的名馬・シンボリルドルフが無傷の三冠馬になったのは、もう21年も前になる。鞍上は岡部幸雄。ディープインパクトが3勝目を挙げた弥生賞から4日後の3月10日に惜しまれながら鞭を置き、“引退レース”まで企画された偉大な騎手である。言うまでもなく、騎乗技術は抜群。しかし、今振り返ると、なぜかルドルフ・岡部コンビには明確なイメージがわいてこない。

 吉永正人とミスターシービー、西浦勝一とカツラギエース、柴田政人とミホシンザン。ライバル・コンビに関しては、馬と一体となった騎手の個性的な騎乗がはっきり思い出せる。対して、皇帝ルドルフ。馬の非凡な面ばかりが強調され、騎手・岡部幸雄の影がやや薄いような気がする。

 とはいえ、勝つことを義務付けられたプレッシャーを毎回味わい、ジャパンカップの手痛い敗戦、必勝を期した有馬記念での雪辱…。ダービー後の「ルドルフがまだ行くなと教えてくれた」というコメントはあまりにも有名だ。不世出の超一流馬にかかわったことが岡部幸雄の飛躍のきっかけになったのは間違いない。

 ルドルフ以前、1983年春までの岡部幸雄は、67年にデビューしてからの16年間で、関東ベスト5以内10回、うちリーディング獲得1回。八大競走(クラシック、天皇賞春・秋、有馬記念)制覇は、カネヒムロのオークス(71年)、グリーングラスの天皇賞・春(78年)、ケイキロクのオークス(80年)、ダイナカールのオークス(83年)。34歳で重賞38勝、通算750勝突破は文句なく一流の記録だが、同期の天才・福永洋一(当時すでに引退)の残像がまだ鮮明で、やはり同期の柴田政人とほぼ互角の通算成績。増沢末夫・郷原洋行の両ベテランも健在だった。彼らを乗り越えて一歩抜け出せるかどうか微妙な立場にあった上に、23歳の田原成貴が82年の関西リーディング奪取。若武者・田原が登場した際の衝撃度は、ある意味で後年の武豊以上。岡部幸雄が“普通の一流”のまま終わったとしても不思議はなかった。

 だが、彼は驚異の進化を遂げた。もちろん、ルドルフの影響ばかりではない。10年以上も地道にアメリカ遠征を繰り返すなど、黙々と努力を積み重ねていた成果が現われてきたのだ。87年、39歳にして初の全国リーディング。89年から6年連続で関東1位、91年には武豊(87年デビュー)を抑えて2度目の全国1位に輝いている。岡部幸雄の全盛時代は不惑を過ぎて訪れた。40歳以降で年間100勝以上11回。重賞99勝、うちGⅠ22勝。この超人的とも思える大記録は、武豊でさえ塗り替えられるかどうか。

 いや、数字で凄さを表現するのは不適切かもしれない。関東では一時、岡部幸雄を中心に競馬が回っていた。むしろ、そういう空気が競馬場に漂った時期があったことを強調しておきたい。“ペリエやデムーロ”、“岩田康誠や内田博幸”はいなかった時代。存在感の突出ぶりは記録以上に際立っていた。

◎達人の至芸

 追わせて迫力満点というタイプではなかったものの、すべてにおいてソツのなかった岡部幸雄。卓越した技術の中で、筆者がもっとも感心したのはペースの判断と位置取りだった。たとえ少し力の足りない馬でも、“レースを作り変えて”好走させてしまう彼の騎乗には、独特の説得力があった。

 今回取り上げたクシロキングはその好例である。シンボリルドルフが国内から去り、勇躍アメリカへと旅立った86年、岡部は自身初の中央競馬年間100勝を記録している。年間連対率も自己ベストの.338。重賞は5勝していて、そのうちの3勝がクシロキングだった。

 中距離馬としてクシロキングが確かな歩みを見せていたのは別載の戦歴が示す通り。しかし、淀3200Mは距離が長すぎるとされ、天皇賞では3番人気にとどまった。2月の目黒記念(東京2500M)は3着。それもビンゴチムール、ロンスパークといった軽ハンデ馬に距離適性の差で負けたと思えるレースだった。1月の金杯(中山2000M)、3月の中山記念(中山1800M)が鮮やかな勝利だっただけに、長距離馬でないことは明らかだった。 

 加えて、天皇賞当日は重馬場。それまで稍重で4戦して勝ったことがないように、クシロキングは良馬場で競馬をしたいタイプ。実力と勢いは認めても、半信半疑という状況になっていた。

 1番人気に推されたのは田原成貴騎乗のスダホーク(右写真)だった。85年のダービー(東京2400M)でシリウスシンボリの2着、菊花賞(京都3000M)はミホシンザンの2着。明けて86年はAJC杯(中山2200M)、京都記念(京都2400M)を制し、“距離不足”の前哨戦・大阪杯(阪神2000M)で2着。スダホークはクシロキングとは対照的に春の天皇賞向きと評価された。

 「ミホシンザン(骨折休養中)不在ならスダホークで仕方ない」。JRAの単枠指定が、そんなムードに拍車をかけた。GⅠ勝ちがなく、勝負強いわけでもないのに、単勝150円という圧倒的な支持。結果、7着。直線でまったく伸びずに沈んでいる。ちなみに2番人気は、大阪杯でスダホークに競り勝ったサクラユタカオー(14着)。中距離型で、これも押し出された形の人気馬だった。

 もっとも、岡部幸雄にとっては相手が過剰人気だったかどうかは関係ない。「とにかく脚をためる。ステイヤーのレースにはしない。後半だけのマイルの競馬にする」。綿密に計画を練り、その通りにやってのけた。

 前半1分42秒8、後半1分42秒6、6F目から10F目まで13秒台のラップが5回続く流れ。最初はスタミナを温存しながら後方追走、2周目のバックストレッチに入ってから隙を見て好位進出、気がつくと2番手集団。道悪でも力を減殺しないようにスパートのタイミングを計り、まったくロスのない手綱さばきで最後に抜け出した。岡部幸雄はクシロキングの能力を最大限に引き出し、なおかつレースの方を馬の適性に近づけていた。

 正直なところレベルはあまり高くなく、“スダホークが負けた天皇賞”と記憶しているファンもいると思う。しかし、馬に教わる体験を経て、レースの演出者へ。騎手・岡部幸雄がついに真骨頂を発揮したことも覚えておきたい。

 86年3月29日、シンボリルドルフは遠征先のアメリカ・サンルイレイSで故障、完敗。残念ながら引退を余儀なくされたが、1ヵ月後、傷心を乗り越えて本物になった男の姿が確かにあった。

クシロキング 1982.5.18生 牡・鹿毛

競走成績:25戦7勝
主な勝ち鞍:天皇賞(春)
ダイアトム
1962 黒鹿毛
Sicambre
Dictaway
テスコカザン
1977 鹿毛
テスコボーイ
ハナカンザシ