日刊競馬コラム
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日刊競馬で振り返る名馬
トウショウボーイ
(1976年・日本ダービー)

太陽の子快速ボーイ

◎みんな若かった

 
 レース柱(661KB)


 団塊世代のトップランナーの当方は29歳、子供二人。ニューファミリー・およげたいやきくん・ナンセンスCM・ロッキード事件・限りなく透明に近いブルー…。1976年とはそんな年だった。消費者として労働力として膨大な数で日本の経済を体現してきた団塊世代が20代、日本全体が若かった。戦後の古い価値観がオイルショックで揺さぶられ朽落ち、新たな価値観の萌芽はあっても、混沌とした世相ではあったが、まだ明日は晴れると信じられる時代でもあった。

◎ペーパーオーナーゲーム

 この当時は我が社では社員や競馬好きの作家などが参加するペーパーオーナーゲームが最も盛んだったころである。時効だから公表するが、賞金の0.05パーセントを勝ち馬のオーナーに支払うシステムで、たしか200~300口以上の参加があったはずである。某作家がスポーツ新聞で収支を書いたりすると、帳簿の管理者はハラハラしたものである。それはともかく、あまりに動くお金が巨大になり、もはや遊びではないという理由でペーパーオーナーゲームは廃止された経緯がある。当時はどの馬を所有するかによって、半年間(新馬戦スタートから菊花賞まで)の生活が規定されたのである。

 トラックマンは地の利を生かしてデビュー前の大物、評判馬を仕事以上の熱意を持って探し回ったものだ。トウショウボーイは父が飛ぶ鳥を落とす勢いのテスコボーイ。母のソシアルバターフライはトウショウピット(9勝)、トウショウプリンス(9勝)、ブルートウショウ(5勝)、ソシアルトウショウ(オークス2着)など、毎年優秀な仔を出しており、その血統背景からも、デビュー前からトウショウボーイは断然の注目馬だった。厩舎回りで「保田さんとこの評判馬が骨折で牧場に帰ったぞ」というビッグニュースを聞いたのである。ブンゾンハナという中堅クラスの牝馬を担当していた当時、よく話した長沼厩務員が担当だという。すかさず確認すると間違いなかった。

 こうして当方の半年間の生活は窮乏を極めることになった、苦い思い出である。

◎奇しき因縁

 1976年1月31日、トウショウボーイは年が明けてからのデビュー戦を迎えた。結果は1番人気で楽々と逃げ切って、前途洋々のスタートを切ったが、この新馬戦には後に3強の一角グリーングラスが4着しており、5着にシービークインがいた。

 父トウショウボーイ、母シービークインといえば、言わずと知れた三冠馬ミスターシービーである。つまり、三冠馬はこのレースが縁となって生まれたのである。

 シービークインの松山調教師の、同級生を交配相手に選ぶ進言によって、千明家はスゲヌマ、メイズイに続き、3頭目のダービーオーナーになっている。

 話を前に進めよう。2月22日の300万特別を4馬身差、600万特別が5馬身差、皐月賞も5馬身差のワンサイドゲームで無敗の4連勝。当然のごとく第43回ダービーはトウショウボーイが断然の1番人気だった。

◎負けるはずのないダービー

 1976年5月30日。1頭が取り消し、27頭立てでダービーはスタートした。スピードの違いでトウショウボーイはクッションの利いた502キロの馬とは思えない身のこなしで楽々先頭。ゴールまであと300メートル、鞍上池上騎手の手綱は動いていない。それでなぜ負けたのか?

 あまりの手応えのよさ、後続が何も来ない。池上騎手が後ろを振り返る。なぜ振り返ったのか、そのまま死に物狂いで追い出せば楽勝だったはずである。結果は待ったために、クライムカイザーに一瞬の脚で前をカットされ、インに閉じ込められたのである。ここでクライムカイザーが死力を振り絞って引き離す。トウショウボーイは外に持ち出して差を詰め2着したように、まだ脚は残っていたのである。

◎加賀武見は宮本武蔵だった

 ここで当方はクライムカイザーの鞍上、加賀武見の気迫と執念を思うのだ。

 小天狗で取材をしていて、殺気を感じて振り返ると、そこには加賀武見騎手がいた。吉川英治氏の持ち馬エンメイが骨折事故で死亡した時の鞍上には阿部正太郎騎手。阿部正太郎調教師の娘婿が加賀武見騎手なのだから、勝負の世界に生きるものとして、加賀武見騎手が「宮本武蔵」を範にしたとて不思議はない。いや、粗野で乱暴なタケゾウ=若き日の加賀武見に阿部師は沢庵和尚の役割で対峙したに違いない。加賀武見騎手は武蔵に倣い勝つためにあらゆる努力を惜しまなかった。負ければ死、真剣勝負の選択肢は勝つことだけだからだ。

◎独断と偏見の推理

 後続が何も来ない、不安になった池上騎手の耳に「お~い、池上速いぞ、ペースを落とせ」こんな声が聞こえたとしたら…。武蔵の戦法にはまったのである。なに、奇想天外な想像ではない。加賀武見騎手に「○○速いぞ、速いぞ」と声をかけられ、出し抜けを食った若手騎手の話を当方は何度か聞いているのである。

 クライムカイザーが勝ったのではなく、加賀武見がトウショウボーイに勝ったのだ。クライムカイザーはトウショウボーイに対して通算1勝6敗。本来負けるはずのない戦いだったのだから。

 もうひとつ例を挙げれば、100回戦っても“負けるわけのない”真剣師・小池重明との戦いに敗れた森雞二(ケイジ)を連想していただきたい。ここ一番では技術や能力を超えた、人の想いや気迫が奇跡を起すのだ。

◎天馬トウショウボーイ

 話が横道にそれてしまったが、トウショウボーイには書き尽くせない思い出や記録がある。だが、ここらで本筋に戻そう。ダービーの後に札幌記念(ダート2000m)に出走。スタートでつまずいて、落馬寸前の不利がありながら古馬のダート王・グレートセイカンの2着。クライムカイザーは8馬身差3着だった。この時の札幌競馬場の入場人員が現在でも破られていない60549人。キャパシティが拡大した昨年の札幌記念ですら26262人だから、トウショウボーイVSクライムカイザーの対決がいかに評判になったかがお分かりいただけるだろう。ハイセイコーが初登場の弥生賞、そしてこの札幌記念が、当方の見てきた36年の中で、文字通り立錐の余地のなかったレースである。

 また横道にそれたが、神戸新聞杯1着、京都新聞杯1着、菊花賞3着の秋3戦は、当方がただ一人、天才と認める福永洋一(福永祐一の父)が鞍上にいた。菊花賞3着はダービーと違いやむを得ぬ敗戦であった。深管不安、3000メートル、重馬場と、三重の不利な条件だったからだ。

 天馬と呼ばれたトウショウボーイは芝2200メートルまでなら9戦9勝が示すように超一流馬だったと思う。2400メートル以上では有馬記念を勝ってはいるが2・3・1・7・2着と、単なる一流馬の域を出なかった。

 緻密な魔術師・武邦彦騎手とのコンビでテンポイントと戦った有馬記念(現3歳時)1着、宝塚記念1着、有馬記念(現4歳時)2着。この3レースは実に味わい深いものだった。内から外、外から内、緩急のペース…。変幻自在の技を繰り出した武邦彦の騎乗ぶりは、まさに息子の武豊騎手に二重写しになるのである。このあたりのレースはすでにビデオが開発されており、活字で表現するのは無粋というものだ。

◎お助けボーイ

 「太陽の子」と当方がタイトルを付けたのは、トウショウボーイが日本の競馬界に光と恵みを与えたからである。日高軽種馬農業協同組合でシンジケートを組まれたトウショウボーイは、前述のように三冠馬ミスターシービーや、アラホウトク(桜花賞)、シスタートウショウ(桜花賞)、ダイイチルビー(安田記念・スプリンターズS)、パッシングショット(マイルCS)、サクラホクトオー(朝日杯3歳S)、ダイゼンキング(阪神3歳S)など、コンスタントに走る産駒を出した。トウショウボーイの子供なら例外なく高く売れて牧場を潤し、生産者からは「お助けボーイ」と呼ばれたのである。競走馬として〔10.3.1.1〕。そのうち12回が1番人気。2番人気3回(テンポイントが1番人気)と競馬界のフットライトを浴び続け、その血は洋々と枝葉を広げて牧場に恵みをもたらした。

 神は人類に試練しか与えない。しかし、お天道さまは確かな恵みを地球にふりそそぐ。トウショウボーイはまさに太陽の子だった。

トウショウボーイ 1973.4.15生 牡・鹿毛

競走成績:15戦10勝
主な勝ち鞍:皐月賞、有馬記念、宝塚記念
テスコボーイ
1963 黒鹿毛
Princely Gift
Suncourt
ソシアルバターフライ
1957 鹿毛
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Wisteria