●経験と記憶こそ
 我が唯一の私有財産


「こちらが礼を尽くして訊くのに応えないなら相手が悪いのだ」とばかり、怖がって誰も近づかない稲葉幸夫調教師や松山吉三郎調教師に取材し、息を殺してブルドックのような藤本富良師との間合いを詰めた。東京のすべての調教師に毎週出走予定全馬の話を聞いたのは、私の密かな財産である。ケンもほろろにトラックマンを追い払う調教師でも、仕事を終えて厩にひきあげてからの取材には懇切丁寧であることを知ったものである。
「こんなやつにお茶なんかいらねぇ」と怒鳴りながら、情には厚かった大久保末吉師。「おまえらは斥侯だろう。どこの厩舎の回し者だ」と軍隊上がりらしいクリノハナ(皐月賞・ダービー)の八木沢勝美師。セントライト(三冠馬)の小西喜蔵師は好々爺で、カイソウ(ダービー)、クモノハナ(皐月賞・ダービー)の橋本輝雄師は陽気な気質だった。スゲヌマ(ダービー)の中村広師は泣きの中村と異名をとったが、ハクチカラ、ハクショウでダービー2勝の保田隆芳師とともに紳士だった。

●思えば麻雀仲間は
 歴史上の人物だった


 逆に、われわれトラックマンにネギを持って近づいてくる関係者もいた。
「なにモタモタしてんのよ!」
と、文句を言う私に
「おう、ちょっと待てや」
と応えるのは、幻の馬トキノミノル(皐月賞・ダービー)やゴールデンウェーブ(ダービー)、ヒロイチ(オークス)の鞍上にいた岩下密政調教師であり、
「重ちゃん、また大三元ねらいかよ、好きだねぇ〜」
とからかわれる相手は、メイズイ(皐月賞・ダービー)やワイルドモア(皐月賞)、シャダイターキン(オークス)、ジュピック(オークス)など、クラシック男と呼ばれた森安重勝騎手だった。今にして思えばトキノミノルやメイズイのことなど訊いておけばよかったものを…。いつでも訊けると思うと、不思議と取材する気にはならないものだ。それよりも、麻雀でカモることしか頭になかったのかもしれない。
 競馬の世界には博打の世界だからこそむき出しになる人間模様を見る楽しみがあった。タニノムーティエが去った翌年、入社2年目の24歳。東京のトラックマンになりたての私には、「博打で勝ち抜くほど人生では敗者になる」というパラドックスなどまだ分かりはしなかった。社会とは隔離された競馬の世界で博打三昧の日々を送っていたが、断じて遊びではない、私にとって現実と折り合う唯一の術であり、内なる情念との戦いだったのである。

●矛盾を孕む人間存在
 価値観は人それぞれ


「人間とは何か」

 そんなことを知らなくても人は生きていける、現実には何の意味もないことだから。解答のある勉強より、あらかじめ答のない疑問にとり憑かれ、自分の肉体を実験台に命題と向き合ってきた。未だ明快な言を得ずにいるが、なに言葉にすれば嘘になるだけだ。競馬業界で35年の時をやり過ごしてみれば、現実に埋没することなく問いを発し続けたこと、それ自体が自分には意味のあることなのだ。