タニノチカラ ●スケール偉大なり
 弟馬タニノチカラ


 弟馬タニノチカラ

 1971年デビューだが、タニノムーティエの弟ということもあり、すべて1番人気で新馬3着、1着。りんどう特別2着、野菊賞2着。当然のことながら将来を嘱望されていたものの、長期リタイア。私たちがタニノチカラを初めて見たのは1973年7月7日の札幌200万・ダート1700だった。1年8ヵ月ぶりの出走だったが、4馬身差楽勝。続く積丹特別が5馬身、格上がりの利尻特別を4馬身と、持ったままの3連勝で「秋の天皇賞と有馬記念は決まったな」。こんな会話を交わした記憶がある。
 交流のほとんどない時代、北海道で初めて接する関西馬が、関東圏の我々の度肝を抜いたのである。札幌4戦目、格上がりでトップハンデのオホーツクHは出遅れが堪えて4着とはいえ、明らかに普通の馬とは迫力が違っていたのである。
 帰厩すると朝日CC1着、ハリウッドTC1着、目黒記念3着、我々の予想通り秋の天皇賞1着。復帰からたった4ヵ月で最下級から頂点に立っていた。だが、予想と違ったのはハイセイコーを最後までマークして、先行したストロングエイトとニットウチドリの逃げ残りを許した有馬記念4着である。枠連13300円。今でも鞍上の消極的な騎乗に納得がいかないのだ。馬券で損をしたからではない。ブランブルーを父に持つチカラは兄ムーティエと何もかもが異質だった。切れ味はないが、排気量の雄大さが特長だったのである。自分でまくって出るか先行すれば、どんな馬でも捉まえきれっこなかったのだ。だが、鞍上田島日出男も同じ過ちは犯さない。翌年、1974年の2度目の有馬記念では、マイペースでぐるっと先頭で走り抜けただけ。ハイセイコー、タケホープに影も踏ませず、5馬身差をつけていた。
 この有馬記念の時に豪語した言葉を今でも覚えている。「このレースで損したら競馬をヤメる」と。なぜなら、2番人気のタニノチカラの単勝馬券を外すとは思えなかったからである。その後3戦でタニノチカラはターフを去ったが、全成績〔13、5、4、2〕。忙しい距離やスピード決着のレースでの取りこぼしはあるが、骨太の栗毛馬でパワー兼備のステイヤーとしては、稀有な資質を持った馬だったと思うのである。