番外編

マッチ擦る
つかのま海に霧深し
身捨つるほどの
祖国はありや

 私の一番好きな短歌である。二十代前半までの寺山修司が詠んだのは、肉体や家庭や社会的弱者への憐憫であり、権力への告発を含んでいた。それは父のいない自身の欠落感から発する“平等”への希求だったのかもしれない。

男はいつでも死について思っている。男にとって、「いかに死ぬべきか」という問いは「いかに生くべきか」という問いよりも、はるかに美的にひびくのだ。

 大学時代に不治の病であるネフローゼを患い、つねに死を意識するようになってからの寺山修司の詩は、命を詠むものが多くなっている。ただ、寺山修司のセンチメンタリズムは自己憐憫ではない。生あるものへの慈しみだったように思うのである。芝居やラジオ、映像へと寺山修司の世界が広がるにつれ、“捨てたわけではないが”詠むことのなくなった詩を、熱中していた競馬の世界でのみ書き続けていたのである。スポーツ新聞や、競馬週刊誌や優駿で、リアルタイムに寺山修司の文章に触れていた、私たち競馬ファンは恵まれていたことを改めて思うのだ。

 1983年4月17日。お気に入りの騎手、吉永正人がミスターシービーで皐月賞を勝った日、病的な潤んだ眼、黒いトレンチコートをはおり、口元をゆがめる薄笑いを浮かべながら…。中山競馬場3階の馬券発売場の穴場に手を入れる寺山修司がいた。私にとって競馬は人間存在の苦悩から一瞬だけ生きていることを忘れるための“雨宿り”だが、寺山修司にとっての競馬は何だったのだろうか? 奥様だった九条映子さんには寺山修司に対する疑問をお聞きしたことがあったが、ついにご本人から直接お聞きするチャンスを逸してしまったのが残念である。皐月賞観戦記、ミスターシービー賛歌の文章を書くことなく、寺山修司は17日後の5月4日12時5分。杉並区の河北病院でテンポイントの後を追ったのである。

人生には、答えは無数にある。
しかし、質問はたった一度しか出来ない。
   『誰か故郷を思わざる』

◎現在進行形の伝説
 テンポイントが流れ星となった翌年、全弟キングスポイントがデビューした。平地では14戦して1勝だけ。愚弟と思われたものの、障害に転向するや阪神障害S春・秋、中山大障害春・秋連覇など、〔14.2.0.1〕の快進撃。障害界の頂点を極めたその刹那、4度目の中山大障害(春)で悲劇は起きたのだ。63キロの斤量を背負って落馬骨折、薬殺処分となったのである。
 一族の悲運が続いたが、クモワカ→ワカクモの血は途絶えたわけではない。ワカクモの2歳下の妹オカクモの系統からダイアナソロン(桜花賞1着、エリザベス女王杯1着)が出ているし、テンポイントの1つ上の姉オキワカがワカテンザン(皐月賞2着、ダービー2着)、ワカオライデン(朝日チャレンジC、東海菊花賞、名古屋大賞典)を産んでいる。そして寺山修司の言葉を借りれば、“草競馬”でワカオライデン産駒が大活躍しているのである。
 ちなみにワカオライデン産駒は地方競馬から中央に殴り込んだライデンリーダー(桜花賞トライアル1着、桜花賞4着)、サブリナチェリー(東海ダービー)、アクアライデン(ダイオライト記念)、ライデンスキー(岐阜王冠賞)、シンプウライデン(名古屋優駿、東海ゴールドC)、トミケンライデン(全日本サラブレッドC)などがいる。クモワカに端を発した日本競馬史上最大の不思議な物語は現在も続いているのである。願わくば、次のドラマが悲劇でないことを祈りたい。

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