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馬 題字
特別復刻版 1964年04月26日
第14回東京盃
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馬柱 ◎良血・大物感
 父・クモハタは下総御料牧場の大種牡馬。自身、第8回ダービー(1939年・昭和14年)を勝った名馬で、その産駒にはニユーフオード(菊花賞・天皇賞)、ヤシマドオター(桜花賞・天皇賞)など、7頭の天皇賞馬がいる。

 母・シラハタ(父・プリメロ)は小岩井農場の生産で、福島記念など8勝。全弟にハクリヨウ(1954年・昭和29年の年度代表馬)。あのビユーチフルドリーマーに端を発する超名門牝系である。

 そんな父母を持つメイヂヒカリは、1952年(昭和27年)3月24日、三石の大塚牧場で生まれた。

 当初、この原石は一見して小柄。抜群の好馬体というわけでもなかったが、東京の藤本冨良厩舎に預けられ、実戦に向けて調教を積むごとに目に見えて良化していった。血統通り、間違いなく走る馬。新田新作オーナーは目を細め、厩舎主戦の蛯名武五郎騎手は早くもクラシックを意識した。

 待望のデビュー戦は54年10月23日の新馬戦(中山芝1000M)。後続に5馬身差の快勝だった。2戦目はケゴン、イチモンジ(のちのNHK盃馬)、3戦目はオートキツ、イチモンジ、4戦目の朝日盃3歳S(当時は中山芝1100M)ではオートキツ、ケゴン、イチモンジをまとめて破り、1番人気にこたえて土つかず。関東最強の座を不動のものにするとともに、クラシックの最有力候補となった。この年新設の“代表馬選考”において、メイヂヒカリが最優秀3歳馬に選出されたのは当然だろう。

馬柱 ◎年度代表馬の座を逃す
 連勝記録はどこまで伸びるのか。1月、3月のオープンを勝って6連勝。皐月賞まで無傷の快進撃…と思っていたところに落とし穴が待っていた。

 3月27日。スプリングSで断然の1番人気になったメイヂヒカリは、信じられないような凡走劇を演じてしまった。6頭立ての5着。しかも、見せ場を作れず内容が良くない。稍重の馬場を気にしたのか、体調に問題があったのか。釈然とせずに調教を重ねていると、皐月賞の直前追い切り終了後にアクシデントが発覚した。後脚の飛節不安。1955年(昭和30年)、メイヂヒカリのクラシック・イヤーは暗転した。

 皐月賞ばかりかダービーにも出られない重傷。春のクラシックを棒に振り、失意の日々を送った。皐月賞優勝のケゴン、ダービー制覇のオートキツは、ともに力の差を見せてねじ伏せ続けた馬である。悔しいが、あせっても仕方ない。目標を菊花賞に切り替え、陣営は秋に備えた。

 調教師以下、スタッフが懸命の立て直しを図った結果、メイヂヒカリは復活した。10月、復帰3戦目のオールカマーを古馬相手に58キロで制し、京都の前哨戦・オープンも勝つと、いよいよ春の無念を晴らす時がやってきた。

 11月23日。1番人気はダービーから6連勝しているオートキツ。ライバルも一段と強くなっていたが、新田オーナー、藤本調教師、蛯名騎手とも心中に期するものがあった。終わってみれば、何と10馬身差。2着オートキツを尻目に、軍配は“幻の三冠馬”メイヂヒカリに上がった。

 4歳最強馬は、これではっきりした。しかし、この後の12月の中山特別(重賞・芝2400・ハンデ戦)でケチがついてしまう。6頭立ての6着。激戦の疲れから腰を痛めたのが敗因だったが、心証を悪くして年度代表馬の座をオートキツに奪われる結果となった。当時は何といってもダービーが頂点。いくら強くても、菊花賞以外の重賞は1勝しかしていないメイヂヒカリは、ダービー馬を乗り越える評価を得ることができなかった。

◎第1回“中山グランプリ”制覇
 このまま引き下がるわけにはいかない。翌1956年(昭和31年)3月、戦列に戻ってオープンを楽勝。続く天皇賞・春は余裕を持ってレコード・タイ。ウゲツ以下に5馬身の差をつけている。

 改めて能力の高さを証明したメイヂヒカリは、最後の花道に新設の中山グランプリを選んだ。ファン投票によるドリーム・レース。優勝賞金はダービーと同額の200万円で、天皇賞の150万円を上回る古馬No.1レースであった。

 翌年、当時の有馬頼寧理事長の急逝によって中山グランプリは“有馬記念”と改称されている。現在、ダービーの次に有名な競走として競馬ファン以外にも広く認知された年末の一大イベント。時期的なものが第一ではあるが、“有馬”の名も盛り上がりに一役買っている。偶然とはいえ、ひと目で競馬の大レースらしい雰囲気を表現して、抜群の語感。施設改善の特別立法に尽力した有馬第2代理事長は、最高のレース名を後世に残した。

 前哨戦のオールカマーは62キロでトヨタニにアタマ差2着で敗れたメイヂヒカリ(小柄馬で重いハンデは苦手)だが、55キロで出走できる中山グランプリは実力No.1をアピールする絶好の機会でもある。ファン投票こそ菊花賞馬キタノオーの2位に甘んじたものの、調整に抜かりなし。ファンも底力を信じて1番人気に推した。

 天皇賞馬ダイナナホウシユウら先行勢を前に置いて無理なく追走して、4コーナーからスパートする横綱相撲。追い込んできたキタノオーに3馬身1/2差、2分43秒1(中山芝2600M)の日本レコードで引退レースを飾った。ちなみに完全本格前だったとはいえハクチカラ(4歳、ダービー馬)は5着。その他にもヘキラク(皐月賞馬)、ミツドフアーム(天皇賞馬)などの強敵を一蹴している。

 12頭立ての第1回中山グランプリは賞金にふさわしい豪華なメンバーで行なわれ、メイヂヒカリが初代覇者となっている。もちろん、今度は異論があろうはずがない。メイヂヒカリは56年の年度代表馬に満場一致で選ばれた。

 その後、メイヂヒカリは出身の大塚牧場で種牡馬生活に入った。輸入種牡馬が圧倒的な優勢を誇った時代。現在でいうGTレースの勝ち馬を送り出すことはできなかったが、産駒には中央のサラブレッド平地重賞勝ち馬が3頭いて、地方競馬では大井記念、東京大賞典を制したオーシヤチ、大井記念ブラツクメイジらが活躍した。

 今回の紙面は1964年(昭和39年)の東京盃。メイヂヒカリの産駒が好成績を残している。優勝のミオソチスは前年のオールカマー(当時は中山芝2000Mのハンデ戦)も制覇した重賞2勝馬。3着のハーバーヒカリは前走で目黒記念・春を勝っている。64年はキクノヒカリもダイヤモンドS(当時は東京芝2600M)を制し、代表産駒が中央の重賞で地味ながら一斉に好走。この年、メイヂヒカリは種牡馬リーティングの11位に食い込んでいる。

〔田所 直喜〕

☆1956年度代表馬☆
☆顕彰馬☆

メイヂヒカリ 1952.3.24生 牡・鹿毛
クモハタ
1936 栗毛
トウルヌソル Gainsborough
Soliste
星旗 Gnome
Tuscan Maiden
シラハタ
1945 黒鹿毛
プリメロ Blandford
Athsai
第四バツカナムビユーチー ダイオライト
バツカナムビユーチー
 

馬主………新田 新作 → 新田 松江
生産牧場…三石・大塚牧場
調教師……東京・藤本 冨良

通算成績 21戦16勝[16.2.1.2]
主な勝ち鞍 朝日盃3歳ステークス(1954年)
菊花賞(1955年)
天皇賞・春(1956年)
中山グランプリ(1956年)


1964年4月26日
第14回東京盃 東京 芝2400m・稍重
[7]ミオソチス牝550高松三太2.30.4
[6]カネツモルモツト牡549佐藤征助1/2
[4]ハーバーヒカリ牝653.5野平祐二1.1/4