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馬 題字
特別復刻版 1978年12月17日
第23回有馬記念
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馬柱 天才はなくてもいい
 光るもの一つでいい


◎出自華やか
 1976年9月12日はカネミノブのデビュー戦(東京ダート1200)である。母カネヒムロは5年前のオークスを10番人気で勝ち、岡部幸雄に初めてクラシックをもたらした馬、あるいは384キロのオークス史上最も小柄な馬として名を残している。当時現場にトラックマンとしていたわたしには、不良馬場を追い込んできた“重巧者”として強烈なイメージがある。
 母がオークス馬。ヒンドスタン、パーソロンに続き、当時もっとも勢いのあったプリンスリーギフト系(テスコボーイ、ファバージ)のバーバー産駒。鞍上には当代一の騎手・加賀武見。そのうえ重馬場となれば1番人気は当たり前だろう。しかし、結果は三角で二番手に進出したものの4着だった。誰が初戦のこのレースにカネミノブの競走馬としての未来が予見されていたと気付いたことだろうか。3歳時(旧表記)は2戦目に新馬を勝ち、続くりんどう賞2着、白菊賞1着で終えた。
 4歳になった1977年は弥生賞2着、皐月賞6着、ダービー3着、札幌記念5着、大沼S1着、セントライト記念2着、京都新聞杯5着、菊花賞5着。4歳時にはダービー3着は評価できても、この年代はマルゼンスキーだけが傑出しており、条件戦の大沼Sを勝っただけのカネミノブは、デビュー前のイメージとは違い、きわめて地味な存在だった。



馬柱 ◎一瞬光った5歳
 1978年1月5日。5歳になったカネミノブは不良馬場の金杯(ダート2100)をプラス16、472キロの成長した体で2着。名古屋へ遠征した中京記念4着。京王杯4着。後方から差を詰めて届かず、あるいは好位で伸びずの繰り返しだったが、5月14日のアルゼンチン共和国杯(東京・芝2400)で初めての重賞を勝っている。ただ、カネミノブが1番人気だったように9頭立てで相手も弱かった。続く日本経済賞(中山・芝2500)も相手に恵まれて快勝したが、毎日王冠はプレストウコウに完敗の2着、目黒記念も2着。そして3200の天皇賞・秋が5着。重賞は2つ勝ったものの、天皇賞の着順がこの馬の力関係を示していたのである。だが、12月17日の有馬記念で乾坤一擲、カネミノブはたった1度の大レースの勲章を手にしたのである。

馬柱 ◎有馬記念レコード勝ち
 有馬記念は15頭と頭数は揃ったものの、能力差のないメンバー構成だった。天皇賞・秋を勝ったテンメイが出走回避して、押し出されるように毎日王冠1着、天皇賞2着のプレストウコウが1番人気。オープン連勝のホクトボーイが2番人気、半年振りのグリーングラスは3番人気止まり。菊花賞5着のダービー馬サクラショウリが4番人気・・・。カネミノブはノーマークに近い9番人気だった。
 わたしは◎プレストウコウの6枠から馬券を買ったが、天才・福永洋一が気になって6番人気の8枠エリモジョージから返したのである。まず自分の予想した馬券を買う。そして、パドック、返し馬をチェックしてから力関係とは別に、一番良く見えた馬を必ず買うことにしている。体調チェックもあるが、馬に走る気があるかないかを重視している。頭で考える成績からはどうしても買えない大穴を取るのは、いつも自分の目を信じた結果だったからである。それはさておき、メジロイーグルが逃げて、エリモジョージが二番手。加賀武見・カネミノブは好位のインで流れに乗り、ロスはない。直線に入るとエリモジョージはメジロイーグルに振り切られてしまった。プレストウコウは後方で伸びる気配がない。暮れの有馬記念である。扶養家族3人、ひごろは所帯馬券のわたしでも張り込むレースである。
「ダメか!」
 プレストウコウもエリモジョージも沈んだ。黒い帽子のカネミノブが先頭に立つ。粘り込みを図るメジロイーグルの外からピンクの帽子のインターグロリアが伸び、ゴールではわずかに差したように見えた。
「今年も終わった」
 レースにのめり込んだ頭が徐々に冷静さを取り戻してくる。
「待てよ、8枠ピンク、代用だ!」
 枠連2-8、7330円。枠連時代には代用品で救われることがしばしばあったものだ。代用品には“併せての狙い”だとか“ツキも実力のうち”なんて言葉がよく使われた。ターフビジョンのない時代のファンは帽子の色を拠りどころにレースを見ているが、トラックマンの多くは自分の買った馬を中心に双眼鏡で追うので、プレストウコウとエリモジョージが潰れた時点で自分の馬券が外れたと思い、代用品に気付くのが遅れるのである。代用品で的中した瞬間に歓喜はない。しかし、窓口で換金して初めてじわっと嬉しさがこみ上げてくるものなのである。73300円。当時の給料の半分ぐらいであろうか。何に使ったのか定かではないが、1978年の暮れに家計が潤い、年が越せたことは間違いない。

馬 ◎偉大なる職人
 5歳でチャンピオンホースとなったカネミノブの6歳時、1979年の時代状況は、成田空港開港。サンシャインビル完成。試験管ベビー誕生。ディスコブーム。中年の自殺がヤングを抜く。ナンチャッテおじさん・・・。時間と空間の短縮を価値観とした20世紀、その後半はさらに速度を速め、一方でスピードに取り残される中高年の諦念が顕わになってきた時代とわたしには感じられた。それはともかく、カネミノブはAJC杯4着、中山記念4着、オープン3着、毎日王冠2着、天皇賞・秋10着、有馬記念3着と善戦はしたものの、6歳時は未勝利で終わったのである。
 7歳になったカネミノブはAJC杯2着、目黒記念1着、日経賞3着、宝塚記念7着、高松宮杯3着、毎日王冠1着、目黒記念4着、天皇賞・秋4着、有馬記念3着で1980年を終えた。そして、8歳を迎えたばかりの1981年1月18日のAJC杯4着を最後にターフを後にしている。
 全成績〔8.8.6.15〕。とくに光る成績ではないが、着外の内訳を見ると4着7回、5着5回。掲示板を外したのは皐月賞、天皇賞・秋、宝塚記念のたった3回なのである。とくに2400〜2500では1着4回、2着3回、3着4回、4着3回、着外1回であり、有馬記念1、3、3着の成績がきらりと光る。
 偉大なるジリ脚。カネミノブは「時代を駆け抜けた名馬たち」52頭の中では際立つ強さを感じさせることのない馬である。スターではなかった。一芸に秀でた芸術家でもなかった。だが、先走ることがなく、時代に踊ることもない。いくらか時計のかかる2400〜2500ならいつも力を出し切れる軸のぶれない“職人”だった。
 付け加えるなら、主な産駒にキーミノブ(毎日杯、ペガサスS)、ニューファンファン(毎日杯)、タイガーローザ(ひいらぎ賞、フラワーC3着)、タカノミノブ(ラジオたんぱ杯3着)がいることを記しておこう。

〔梅沢 直〕

☆1978年度代表馬☆
カネミノブ 1974.5.23生 牡・鹿毛
バーバー
1965 鹿毛
Princely Gift Nasrullah
Blue Gem
Desert Girl Straight Deal
Yashmak
カネヒムロ
1968 鹿毛
パーソロン Milesian
Paleo
カネタチバナ ヒカルメイジ
コンキユバイン
 

馬主………金指利明
      → 角替光二 → 畠山伊公子
生産牧場…青森・青森牧場
調教師……東京・阿部正太郎
      → 美浦・阿部新生

通算成績 37戦8勝[8.8.6.15]
主な勝ち鞍 有馬記念(1978年)


1978年12月17日
第23回有馬記念 中山 芝2500m・良
[2]カネミノブ牡556加賀武見2.33.4
[8]15インターグロリア牝554樋口 弘
[3]メジロイーグル牡454河内 洋クビ