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馬 題字
特別復刻版 1984年04月15日
第44回皐月賞
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馬柱 題字 ◎光陰矢のごとし

 1984年(昭和59年)。あのシンボリルドルフの三冠から、もう20年も経ったのか。坂本勉(青森・57期)の銅メダルからも20年…。

 ソ連・東欧勢がボイコットしたロサンゼルス・オリンピックが開催されたのはこの年。アメリカのカール・ルイスが陸上で100M、200M、走り幅跳びを制する離れ業を演じ、アメリカチームの400Mリレー優勝にも貢献した。レーガン大統領再選。第2次中曽根内閣発足。日米はロン・ヤスの時代だった。イラン・イラク戦争は5年目に突入し、香港の中国返還が正式に決定。福沢・新渡戸・夏目の新日本銀行券が発行され、誘拐と毒入り菓子に震撼した“かい人21面相”によるグリコ・森永事件が起こっている。

 シンザン三冠の1964年(昭和39年)に生まれた筆者は、当時大学1年の20歳。大人の世界の仲間入りを果たした(本当はそんなことは断じてない!)高揚感で、いわゆる“テンションが高い”生活に突入してしまった。

 「じっくり競馬でもやろう」。ゆっくり過ごすデタラメなモラトリアムを想像して大学生となったものの、バイトを積極的にこなし、なぜか学園祭の運営にかかわるようになり、4年生の先輩と競馬の話で盛り上がりつつ、自らは覚えたての麻雀と競輪に熱中する多忙な日々(勝手に忙しくしていただけ)。楽しかったが、まったくもって思慮の足りない毎日を、その後5年間送ることとなる。

 BGMは佐野元春かサザン、ユーミン(松任谷由実)が主流。昔も今もカラオケでは演歌に軍歌、民謡や童謡ばかりで変人扱いを受けてしまうのだが、80年代のポップスは結構歌える。過ぎ去ってみれば、あれが青春時代だったのだろう。

 84年当時、20年前のシンザンといえば、筆者にとっては記録と文献、わずかな映像でしか知らない伝説の馬だった。メディアが発達したとはいえ、現在20歳の競馬ファンにシンボリルドルフがどう認識されているかは興味がある。いずれにせよ、ルドルフ伝説はそれこそ永久不滅。日本で競馬が続けられる限り、語り継がれるはずだ。

馬 ◎ビゼンニシキとの攻防

 シンボリルドルフは1983年(昭和58年)7月23日、新潟でデビュー戦勝ち。2戦目は10月29日のいちょうS、3戦目は11月27日の平場オープンで、ともに楽勝した。ミスターシービーがシンザン以来の三冠馬となり、競馬ファンの注目を一身に集めていたころ、その天下を脅かす超大物は着々と歩を進めていた。

 シンボリルドルフは3歳時から評判馬だった。3戦3勝とはいえ重賞勝ちはなく、最優秀3歳牡馬選考の投票ではわずか2票を集めただけに終わったが、競馬会ハンデキャッパーによるフリーハンデは、ロングハヤブサ(デイリー杯3歳S、阪神3歳S優勝)、ハーディービジョン(京成杯3歳S、朝日杯3歳S優勝)、サクラトウコウ(函館3歳S優勝)に次いで第4位。将来性は一番という声が高かった。

 シンボリルドルフの競走生活前半のハイライトは、ビゼンニシキとの世代bP争いである。第1ラウンドは84年、無敗同士の対決となった弥生賞(3月4日)。3戦全勝・3カ月ぶりで18キロ増のシンボリルドルフに対し、ビゼンニシキは4連勝、2月の共同通信杯4歳S快勝。仕上がりと完成度に差があると見られ、1番人気に推されたのはビゼンニシキだった。

 シンボリルドルフは、この強敵を相手に初めて神秘のベールを脱いだ。好位追走から楽々抜け出し、追いすがるビゼンニシキを問題にしない完勝。その勝ちっぷりもだが、こともなげに語る野平祐二師の言葉が振るっていた。「楽な勝ち方でしたね。今後の課題は精神面の強化。デビュー当時に組み立てたローテーションをきっちり守りたい」。つまり、ビゼンニシキですら最初から眼中になく、弥生賞の優勝はクラシック制覇に向けての予定の遂行でしかないことを明らかにしている。

 何という自信。傲慢と言われても仕方ない発言に、しかしなぜか筆者は納得してしまった。ミスターシービーに続いて、世紀の優駿が登場。いや、シンボリルドルフこそ真打ちなのでは…。

 ただし、ビゼンニシキ陣営はあきらめていなかった。弥生賞は出遅れに加えて直線で内にささる不利。逆転の望みを第2ラウンドの皐月賞(4月15日・今回掲載の紙面)に託した。

 単勝の売り上げは、シンボリルドルフ1億7998万円、ビゼンニシキ6968万円。弥生賞は互角の決戦だったが、皐月賞ではNo.1とNo.2の戦いとなった。結果は、またしてもシンボリルドルフに凱歌。ビゼンニシキは1馬身1/4及ばず2着だった。

 とはいえ、このレースでビゼンニシキの株も再び上がった。ルドルフを負かしに行って、さらに直線ではルドルフにぶつけられながらも2着確保。3着オンワードカメルンには4馬身の差をつけている。シンザンにウメノチカラがいれば、シンボリルドルフにはビゼンニシキ。超強豪の陰で泣く名馬は、どの時代でも忘れがたい存在となる。

 ちなみに皐月賞のビゼンニシキの走破タイムは2分1秒3。1993年(平成5年)にナリタタイシンが2分0秒2で勝つまで、このタイムを上回る皐月賞馬はシンボリルドルフだけだった。例年なら楽にクラシックを勝てる実力。不運であった。

 ビゼンニシキはNHK杯(当時はダービートライアル)を勝って、ダービー(5月27日)に出走した。受けて立つシンボリルドルフは皐月賞からの直行。三たび対戦した両者は、ここで大きく明暗を分けることとなる。無敗のままダービーを制したシンボリルドルフ、距離の壁に当たって14着に沈んだビゼンニシキ。クラシックの主導権が明確になったこの時点で、シンボリルドルフの三冠制覇は約束されたのかもしれない。

馬 ◎負けて絵になる馬

 負けない。負けるというシーンが想像できない。ビゼンニシキを退けてしまうと、同期にこれといったライバルはいなくなり、極論すると興味はミスターシービーとの対決に移った。当事者の野平師でさえ「三冠なんて当たり前すぎて意味がない。ジャパンカップに駒を進めたい」と表明するほどだった。

 結局、菊花賞(11月11日)もジャパンカップ(11月25日)も両方使うことになり、菊花賞は当然のように快勝した。当時は菊花賞とジャパンカップは中1週の日程。それで勝負になると和田共弘オーナーに思わせたのだから、いかにシンボリルドルフがケタ違いの馬だったかが分かる。

 ここで、一頓挫があった。ジャパンカップ(4番人気)で3着に敗れて、初めて負けの味を知ってしまうのだ。ちなみに、1番人気のミスターシービーは見せ場なく10着に沈んでいる。

 厳しいローテーションを克服して強豪相手に健闘。普通なら喜んでもいい成績を残したのだが、勝ったのが日本のカツラギエースであることがルドルフ陣営のプライドを傷つけた。有馬記念(12月25日)に出走して、日本一がどの馬であるか証明しなければならない。そして、ジャパンカップの1カ月後、カツラギエース(2着)とミスターシービー(3着)に圧勝。シンボリルドルフは1世代上の両雄を抑えて文句なしに84年の年度代表馬に選ばれている。

 年が明けて5歳になって、天皇賞・春とジャパンカップを勝ち、有馬記念を連覇することになるのだが、結果だけではなく内容が横綱相撲の連続。シンボリルドルフの競走生活後半は、自らの絶対的な強さを示すことに終始した。

 それだけに、シンボリルドルフの一番印象深いレースとして、5歳の秋、不覚を取った天皇賞を挙げたい(1985年・昭和60年、10月27日)。ゴール前、ギャロップダイナ(13番人気!)に差し切られて、静まりかえったかといえば、さにあらず。無敵の横綱が敗れた場面に立ち会った興奮が場内を包み込み、スタンドが揺れるような歓声が挙がったのを今でも覚えている。ただし、ルドルフが2着確保、ギャロップダイナと同枠に2番人気のウインザーノットがいて、連勝馬券(当時は枠連だけ)が430円で本命決着。単に喜んでいた人間が多かったのかもしれないが…。

 とにかく、シンボリルドルフほど「格が違う」「負けるわけがない」と言われ続けた馬はいない。あれだけ多くのGI馬がいながら、神秘性という点でシンボリルドルフを上回るサンデーサイレンス産駒はいないと筆者は思う。王道を圧倒的な強さで突き進む馬。と同時に負けて絵になる馬。20歳の競馬ファンにも、そんな "皇帝" シンボリルドルフを分かってほしい。

〔田所 直喜〕

☆1984・85年度代表馬☆
☆顕彰馬☆

シンボリルドルフ 1981.3.13生 牡・鹿毛
パーソロン
1960 鹿毛
Milesian My Babu
Oatflake
Paleo Pharis
Calonice
スイートルナ
1972 栗毛
スピードシンボリ ロイヤルチャレンヂャー
スイートイン
ダンスタイム Palestine
Samaritaine
 

馬主………シンボリ牧場
生産牧場…門別・シンボリ牧場
調教師……美浦・野平 祐二

通算成績 16戦13勝[13.1.1.1]
国内[13.1.1.0]
海外[0.0.0.1]
主な勝ち鞍 皐月賞、日本ダービー(1984年)
菊花賞(1984年)
有馬記念(1984、1985年)
天皇賞・春(1985年)
ジャパンカップ(1985年)


1984年04月15日
第44回皐月賞(GI) 中山 芝2000m・良
[5]10シンボリルドルフ牡457岡部幸雄2.01.1
[2]ビゼンニシキ牡457蛯沢誠治1.1/4
[8]18オンワードカルメン牡457中野栄治