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馬 題字
特別復刻版 1965年8月28日
福島テレビ盃
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馬柱・クリックで別ウインドウが開きます。 ◎三冠王・升田幸三

 1957年(昭和32年)。岸信介内閣が誕生、茨城県東海村に「原子の火」がともり、南極予備観測隊が南極大陸に上陸した。米ソのICBM試射、人工衛星打ち上げなどにより、実生活とはかけ離れながらも日本人は宇宙を意識するようになっていた。また、7月に九州を襲った豪雨は、長崎・佐賀などで950人を超える死者・行方不明を出している。

 競輪は、後楽園ダービー優勝が北海道の雄・佐藤喜知夫。高松宮杯は山口の西村亀、大阪中央(現在は廃止)で行なわれたオールスターは地元の西村公佑が制した。大相撲はこの年だけ年5場所(名古屋が準場所、前年までは4場所制)で、優勝力士は順に横綱・千代の山、関脇・朝汐、小結・安念山、横綱・栃錦、前頭14枚目・玉乃海。前年9月に愛息を不慮の事故で亡くし、横綱昇進も逃した大関・若ノ花(7月に若乃花と改名)は優勝なし。公私とも一見低調だったが、様々な意味で次の年に向けて力を蓄えている時期であった。

 プロ野球は、パ・リーグを連覇したライオンズが水原監督率いる読売を4勝0敗1分で圧倒。三原監督の下、稲尾和久と中西太の投打両輪に、豊田泰光、仰木彬らも加わって西鉄黄金時代を築いていた。東京六大学野球では、長嶋茂雄・杉浦茂・本屋敷錦吾のトリオが大暴れ。立教大学を春秋連覇に導いている。

 岸信介首相の前任者は石橋湛山。病気のため、わずか2カ月の政権だったが、そんな一瞬の輝きは将棋界にもあった。“新手一生”升田幸三。7月の第16期名人戦第6局で木見門下の弟弟子・大山康晴を下して実力制第4代名人となり、同時に王将・九段(現竜王)と合わせて三冠王に輝いた。

文章・クリックで別ウインドウが開きます。  獲得タイトル数(大山80、升田7)の差のわりに通算の対戦成績(大山の96勝70敗1持将棋)が接近しているのは、相撲でいえば大鵬・柏戸の関係と似ている。さらに例えれば、升田の三冠達成は、柏戸の1963年(昭和38年)秋場所における柏鵬楽日決戦(全勝対決の1回目・柏戸の勝ち)に相当するのだろう。

 しかし、負けて話題になるのが真の王者。記録男・大山は偉大だった。三冠をすべて取り戻した後は、タイトル戦では升田の挑戦をことごとく退けて、一度たりとも栄光を許していない。実力以上に結果に差。勝負の世界の非情な一面である。



◎好敵手・キタノオー

 今回の名馬・ハクチカラのライバルはキタノオー(久保田金造厩舎、父・トサミドリ、母の父・トウルヌソル)である。1953年(昭和28年)生まれの同期生。1955年(昭和30年)11月の初対決から57年11月の目黒記念まで計10回戦い、ハクチカラの4勝6敗だった。3代母が星旗(クモハタの母)と名門の出で、当時破格の300万円の高馬だったハクチカラ。一方のキタノオーはオーストラリア出身の祖母バウアーストツクの血統書がないサラ系。エリートVS雑草…とまではいえないにしても、この対決は人々の興味を集めた。

 もっとも、最初から互角の扱われ方だったわけではない。朝日盃3歳S(当時は中山芝1100M)。5連勝と負けなしで、11月にキタノオーを一蹴していたハクチカラは断然の1番人気。キタノオーは6戦4勝。2番人気とはいえ、はっきり差をつけられていた。血統ではなく、成績からそういう評価になっていた。

 ところが、直線で追い勝ったのはキタノオーだった。翌1956年(昭和31年)4月22日の皐月賞(この年は東京芝2000M)では、ハクチカラが体調を崩して12着に完敗。キタノオーは2着。ダービーではハクチカラが巻き返して優勝。キタノオーは大外の不利もあって3馬身差の2着に泣いた。

 こうなると、もはや誰もが認めるライバル関係。だが、後半シーズンはセントライト記念(当時は東京芝2400M)、菊花賞、そして新設の第1回中山グランプリ(芝2600M)でいずれもキタノオーが先着。ダービーは獲れなかったが、菊花賞馬となったキタノオーの方が強いという印象を残した。

 ハクチカラが本当に力をつけたのは、年度代表馬に選ばれた翌57年だろう。春秋の目黒記念。ハンデこそ軽かったが、ハクチカラはキタノオーに2戦とも快勝。秋の天皇賞、有馬記念(中山グランプリから改称)を制して、実力日本一の座を勝ち取った。

 天皇賞での直接対決がなかったのが残念だが(57年春はハクチカラ不在でキタノオーの優勝)、丸2年間がっぷり四つ。対戦回数・内容からも、歴代屈指の好カードといえよう。

◎アメリカへ、そしてインドへ

 2004年3月27日、ドバイワールドカップ。武豊と安藤勝己、マイネルセレクトとアドマイヤドンは結果を出せずに終わった。

 だが、世界との距離は確実に縮まっている。ジャパンカップで日本馬有利は当たり前。海外GT制覇はそれほど珍しいものではなくなり、エルコンドルパサーは凱旋門賞2着。エイシンプレストンのように「香港が得意」という馬まで現れた。

 もちろん、こうなるまでには長い道のりがあった。ワシントンD.C.インターナショナルでの数々の屈辱。怪物タケシバオーも惨敗を喫した。第1回ジャパンカップ(1981年・昭和56年)の衝撃も忘れられない。そして、あの皇帝シンボリルドルフですらアメリカで散っている。

 海外で負け続けた当時、各陣営は口をそろえた。「長距離輸送や環境の変化で、どうしても体調が崩れてしまう。まともだったら…」。

 負け惜しみだったのか? いや、そんなことはなかろう。それを証明しているのが、ハクチカラの偉業である。

 1950年代、馬はもちろん日本人が海外に渡ることは一大事だった。何しろ国外旅行が自由にできない時代(観光旅行の自由化は1964年・昭和39年)。交通事情も現在とは大きく異なる。

 ハクチカラの西博オーナーは進取の人だった。国内制圧の後、進路をアメリカに取ったのだ。1958年(昭和33年)5月、特別に改造した旅客機でハクチカラを輸送。日本初の海外派遣馬として1年間滞在させている。

 さすがに当初は戸惑った。尾形厩舎の主戦・保田隆芳が乗って9・9・4・6・6着。保田の帰国後、12月のトーナメントオブローゼス賞を皮切りに2・3・2着と連続で好走するが、これは鞍上の問題ではなく、ハクチカラが“遠征馬”ではなくなった証拠である。

 そして、ハイライトは1959年(昭和34年)2月23日のワシントンズバースデイハンデ(サンタアニタ競馬場・芝2400M)。49.4キロの軽量とはいえ、当時の賞金王・ラウンドテーブルらを破る金星でステークスウイナーとなった。その後の日本勢の低迷が信じられないような出来事。オーナーの見識と経済力、ハクチカラの素質と適応力があって初めて達成できた快挙だが、滞在の利点が大きく作用したのは間違いない。

 日本では好敵手を得て名勝負を演じ、海外へ進出した後も存在を示すことができたハクチカラ。その競走生活はサラブレッド冥利。半世紀近く経った今も、まったく輝きを失っていない。

 心残りがあるとすれば、1968年(昭和43年)にインドに輸出され、日本で重賞勝ち馬を送り出せなかったことだろう。国内での数少ない活躍産駒のうち、今回はホマレキヨウエイの福島テレビ盃の紙面を掲載した。種牡馬・ハクチカラゆかりの資料として、ご鑑賞願いたい。

〔田所 直喜〕

☆1957年度代表馬☆
☆顕彰馬☆

ハクチカラ 1953.4.20生 牡・栗毛
トビサクラ
1942 栗毛
プリメロ Blandford
Athasi
フライアースメードン Friar Marcus
Tetrach Girl
昇城
1944 栗毛
ダイオライト Diophon
Needle Rock
月城 Campfire
星旗
 

馬主………西 博
生産牧場…浦河・ヤシマ牧場
調教師……東京・尾形 藤吉

通算成績 49戦21勝[21.8.2.18]
国内[20.6.1.5]
海外[1.2.1.13]
主な勝ち鞍 ダービー(1956年)
天皇賞・秋(1957年)
有馬記念(1957年)
ワシントン
  バースデイH(1959年)


1965年8月28日
福島テレビ盃 福島 芝1700m・良
[4]ホマレキヨウエイ牝555山岡 反1.45.7
[3]セシールターフ牝550嶋田 功1.1/4
[5]メジロカンゲツ牡449加賀武見クビ