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馬 題字
特別復刻版 1966年2月6日
第16回東京新聞盃
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馬柱 ◎光と影

 1966年(昭和41年)、日本は前年までの不況から脱出、景気は確実に回復していった。戦後初の輸出超過となり、公共事業の拡大に伴って民間需要が増加、さらに記録的な稲の豊作。好条件がそろったこの年から70年代突入まで高度経済成長を遂げている。

 そして“競馬ブーム”出現。不況に強いといわれたギャンブル事業らしく、1964〜65年も中央競馬は順調に売り上げを伸ばしていたが、66年の1日平均発売額は前年比36%増、総売得金額はついに1千億の壁を突破して1218億円余。シンザン三冠の2年前は6百億円台だから、まさにうなぎ上りだった。入場人員も、開催日数が3%増止まりなのに25%増。10競馬場に延べ約538万人を集めている。

 しかし、急激な発展には何らかの歪みを伴うものである。大量生産を支える各種工場は環境悪化を進行させ、自動車の大衆化は事故件数と死傷者を増やし、明らかな食品公害や重大な航空機事故も少なからず起きていた。

 1965年、伝貧(真性馬伝染性貧血)馬の発生・八百長レース疑惑の2大事件に揺れた中央競馬界。66年は競走馬衛生と競馬公正の確保を重要施策にする必要に迫られたが、加えていわゆるノミ屋が場内・外に目立つようになってきたのも大きな悩みの種だった。

 まだ電話投票がなく、発売所における混雑ぶりは今日とは比較にならない。まして競馬ブームである。当然、主催者サイドでは投票機械化を進めるなど改善策を立てたものの、10%の“落とし”つきでスムーズに買える私設投票にかなりのファンが流れたのは想像に難くない。実際、当時を知る現定年世代にとって、ノミ屋は今以上に身近な存在だったようだ。

 現在、検挙件数だけを見ると全盛時よりかなり減っている。また、1985年(昭和60年)11月の『公営競技場からのノミ屋・コーチ屋・暴力団の排除強化』実施時に21歳だった筆者は、あからさまな行為は場内では数回しか見ていない。とはいえ、近年は海外に拠点を置くインターネット投票などもあり、手口は巧妙化していると聞く。公営競技界にとって宿病といえる私設馬券。追放されるべきなのは論を待たないが、それと控除率の高さの是非とは別問題であることも記しておきたい。

◎空前絶後・尾形藤吉

 競馬が活気づいていた60年代。千勝ジョッキーの野平祐二・保田隆芳から新鋭の加賀武見へ勝ち星リーディング騎手の座が移り、種牡馬はヒンドスタンの独走期が終わって群雄割拠、ファンは6枠連単から8枠連複へ。それぞれ変化を見せる中、調教師界だけは依然として尾形藤吉の時代が続いていた。1955年(昭和30年)〜69年(昭和44年)の15年間にリーディング12回。66年は92勝を挙げ、2位の藤本冨良厩舎に34勝差をつけている。

 戦前から“東の尾形、西の伊藤(勝吉)”と呼ばれた大御所。10ハロンの追い切りも辞さない“英国流”のハードトレーニングで鳴らす一方、引き運動に坂の上り下りを取り入れたところなどは現在の坂路調教に一脈通じる部分もあった。それでいてオーバーワークを常に避ける慎重な鍛錬。強い馬づくりにすべてを賭ける姿勢は全厩舎人の鑑だった。また、厩舎管理者としてだけではなく、1940年(昭和15年)に日本調教師騎手会会長、1951年(昭和26年)には現在の日本調教師会設立後の初代会長に就任して、公私共に第一人者の地位にあった。

 ダービー馬だけで、フレーモア、トクマサ、クリフジ、クリノハナ、ハクチカラ、ハクシヨウ、メイズイ、ラッキールーラ。1981年(昭和56年)、現役調教師のまま89歳で世を去るまで、前人未踏の記録を打ち立て続けた。調教師の定年制度が導入された今日、実績・活躍期間とも乗り越えるのは、もはや不可能だろう。

馬 ◎きっかけは東京新聞盃

 そんな尾形藤吉師にとって、コレヒデは特に強調できる存在ではなかった。これは、同時期同厩舎にハクズイコウ(1966年の天皇賞・春優勝)がいたことも影響している。

 尾形師は自著『競馬ひとすじ』の中で、ハクズイコウに関しては「見るからに眼つぼがよく、りこうそうだし、骨格、体形も好きな馬」「成長がたいへんたのしみ」「故障がなかったら、どんなだったか、ほんとに惜しい気がする」と賛辞を並べているが、コレヒデは「大器晩成型」と書いて、あとは戦歴・レース描写で終わっている。

 65年、4歳(現表記3歳)終了時点で、目立つ成績はクモハタ記念2着のみ。これで古馬になって大厩舎のエースが務まると思えなかったのは無理もない。

 しかし、66年にコレヒデは変身した。端緒となったのが紙面掲載の東京新聞盃。今は別定のマイル戦だが、当時は2400Mのハンデ戦だった。1番人気はあのカブトシロー。これを相手に堂々の逃げ切り勝ちを収めた(出馬表左横写真)。単勝1160円。大器がいよいよ目覚めたのだった。

 春シーズンは、天皇賞で格上のハクズイコウが凱歌をあげるのを横目に5月15日のアルゼンチンジョッキーカップで重賞2勝目。秋はオープンを軽く勝ってから、天皇賞・秋(11月3日・東京芝3200M)に駒を進めた。

馬  春の天皇賞を制したハクズイコウは当時のルールで出走不可。厩舎主戦の保田隆芳がそのまま騎乗することになった。2周目2コーナーすぎで先頭に立つとそのまま押し切り、保田騎手はこれが最後の盾制覇で天皇賞10勝目を飾った(右写真)。コレヒデの単勝は2番人気で360円。ファンは地力アップと勢いを知っていた。

 そして注目の有馬記念(12月25日・中山芝2500M)。ハクズイコウがいながら尾形師は保田をコレヒデに配した。好位を確保したコレヒデは直線で抜け出し、カブトシロー、スピードシンボリらを抑えて優勝した。2番人気で単勝は370円。対して1番人気のハクズイコウは、中団のまま伸びずに7着に沈んでいる。秋に落とした調子は戻り切らなかったのだ。さすが勝負師・尾形藤吉。潜在能力の評価とは別に、状況の見極めはシビアだったといえる。

 コレヒデは強運だった。天皇賞・有馬記念の二冠に輝いた後、寺山修司氏に「こうとなってはコレヒデをたたえないわけにはいかない」と言わせた馬だった。だが、コレヒデは年間収得賞金の当時最高記録を樹立した1966年度代表馬。尾形厩舎の栄光の歴史に確かな1ページを加えた名馬である。

〔田所直喜〕

☆1966年度代表馬☆
コレヒデ 1962.3.23生 牡・鹿毛
テツソ
1956 黒鹿毛
Persian Gulf Bahram
Double Life
Tessa Gillian Nearco
Sun Princess
コリオプシス
1953 鹿毛
Arctic Prince Prince Chevalier
Arctic Sun
Cats Corrie Bosworth
Correa
 



馬主………千明 康
生産牧場…群馬・千明牧場
調教師……東京・尾形藤吉

通算成績 29戦14勝[14.4.2.9]
主な勝ち鞍 天皇賞・秋(1966年)、
有馬記念(1966年)


1966年2月6日
第16回東京新聞盃  東京 芝2400m・良
[6]コレヒデ牡556保田隆芳2.28.9
[5]ヤマドリ牡657森安弘明1/2
[6]ベストルーラー牝553増沢末夫クビ