日刊競馬で振り返る名馬

リユウフオーレル(1963年・天皇賞・春)

◎8枠連複時代の到来

 1963年(昭和38年)、競馬ファンにとって重大な変更事項があった。8枠連勝複式制の実施である。

 いわゆる岩戸景気によって高度経済成長の波に乗り、消費拡大の一連の流れから1960年前後はレジャー・ブームが訪れていた。公営競技界もその恩恵に浴し、馬券・車券・舟券の売り上げは上昇の一途であった。

 好事魔多し。一部の過熱したファンによる騒擾事件が相次ぎ、世間の指弾を受けることが多くなった。事態を重く見た政府は1961年(昭和36年)2月、当時の池田首相の諮問機関として『公営競技調査会』を設置、解決案を練ることを決めた。

 調査の結果、同年7月に最終答申。現在、“長沼答申”で知られるその主旨は「現行公営競技の存続を認め、現状以上に奨励せず、弊害をできる限り除く」方針の下、「(1)重勝式の廃止、(2)単複中心で連勝式に制限を加える、(3)連勝複式の採用、(4)枠のくくり方を改正」というものだった。

 1962年(昭和37年)、この答申に沿って競馬法が一部改正、1963年4月、「8枠連複」の馬券が売られるようになった。ちなみに当時は、1枠から順に白・赤・青・緑・黄・水・茶・黒の配色。適用は4大競馬場(東京・中山・京都・阪神)で、従来の6枠連勝単式は禁止。その他のローカル競馬場(札幌・函館・福島・中京・小倉)では、6枠の連単(6レース以内)・連複を併用という形になった。≪注=当時の旧新潟競馬場は競馬会の所有物であったが、新潟県に貸して県競馬が行われ、中央競馬は開催されていなかった≫

◎馬券今昔

 影響は少なからずあった。導入当初は「盛り上がりがなくなった」「ファンは連勝複式にあきあき」「スリルと迫真性が失われつつある」などの否定的な記事が見られ、売り上げも一時的に落ち込んだ。答申の狙い通り、「射幸心の抑制」に一定の効果があったといえる。新橋遊吉氏の競馬小説『男が駆ける』で主人公の戸上正人が「もう俺は単勝しか買わんぞ」と嘆いていたころである。1963年11月に電通が行なった実態調査では連複反対が35%となっている。

 しかし、競馬ファンが8枠連複になじむのに何年もの時間は要らなかった。1964年の中央競馬の売得金額は約654億円で前年比122.2%。シンザンの登場もあって、日の出の勢いを取り戻している。前出の戸上も「いつの間にか連複を買って満足」するようになった。

 様々な規制緩和を進めても伸び悩む現在では考えられないことだが、1960年代前半は「売れすぎて混乱が起きるくらいなら…」が発想の基本にあった。例えば、その一環として1962年9月、場外発売所の馬券の最低単位を100円から200円に引き上げている。1964年の5回東京からは4大競馬場も200円券と1000円券になり、100円から買えるのはローカル競馬場だけになった。

 これは混雑を少しでも解消するのが主な目的だが、当時の200円には“ビールを飲みながら簡単なつまみを頼める”価値があった。一般大衆にとっては何とも厳しい決定だったはずで、競馬は現在と同じような感覚で遊べるレジャーではなかった。

 もちろん、それによるマイナス面はあっただろう。しかし、だからこそ真剣だった。何事にも分散・細分化傾向が進む現代の世情に合わせるかのように、少額のボックス買い・流し買い・散らし買いが幅を利かせる今日、ギャンブルが持つ本当の面白さと危険性、その両方が人々に理解されていない気がしてならない。

 諮問機関が必要なほどの猥雑な熱気は、高い緊張感から生み出されたのも確か。活気のある社会ゆえ、という見方も不可能ではない。公営競技界も、時代の制約からは逃れられないようだ。

◎ダービーまでは一流半

 さて、話題をリユウフオーレルに移そう。1959年、ヒンドスタンとフオーレルの間に生まれた鹿毛馬は、1961年11月5日、京都の新馬戦(芝1200)でスタートを切り、1番人気で2着だった。連勝して臨んだ4戦目の阪神3歳Sは5着。明けて1962年はオープン2着の後、新春カップを勝って、以降、5着、3着という成績である。

 クラシックを狙うにしては平凡な戦歴。実際、あまり目立たない存在で、皐月賞は16頭立ての8番人気、ダービーは32頭立ての21番人気。ともに8着に終わっている。この時点で11戦〔3.2.1.5〕。

 しかし、その後の数字は並の一流馬とは一線を画している。きっかけは脚質転換。先行から差しにレーススタイルを変えたことで大崩れがなくなった。4歳(現表記3歳)秋の神戸盃で初重賞勝ちを果たすと、菊花賞は8番人気で2着と健闘。12月の阪神大賞典でも古馬相手に2着に入り、いよいよ活躍の期待が高まっていった。

 そんな中で行われたのが翌1963年の天皇賞・春(掲載の出走表)。このレースでは惜しくもコレヒサ(東京・尾形藤吉厩舎)の2着だったとはいえ、西の古馬大将格であることを印象づけている。そして、ファン投票1位で臨んだ6月の宝塚記念を勝ち、完全に軌道に乗った。当時の宝塚記念は関東での場外発売はなく、優勝賞金300万円は天皇賞の半額。現在でいうところのGⅠ格ではない感じだが、それでも当時の『優駿』では“大レース”という表現を使っている。

◎見事な晩成型

 秋シーズンは故障したコレヒサに代わって古馬戦線の主役を務めた。天皇賞・秋はヒカルポーラを抑えてレコード勝ち(出馬表左上写真)、有馬記念では、皐月賞・ダービーのニ冠馬メイズイに1番人気こそ譲ったものの、貫禄を見せて快勝している(右写真)。メイズイと並んで、この年の年度代表馬に選ばれたのは当然といえよう。

 管理の橋本正晴師は前年の全国10位から5位に躍進。4千万円余の賞金を獲得。主戦の宮本悳騎手も勝ち星は全国14位ながら賞金部門では5位に食い込み、馬主の三好笑子氏は千明康、上田清次郎両氏に次いで第3位。また、ヒンドスタンの代表活躍馬として、リーディングサイアー3年連続首位に貢献している。

 古馬の2大競走を制した後の1964年は、余韻を楽しむかのようなレースぶり。それでも3着は外さずに9月23日のオープン戦で国内の競走生活を終えている。ダービーの次走からここまで〔12.6.6.1〕。本格化すると、群を抜く安定感を誇った。

 引退レースとなった11月11日のワシントンD.C.インターナショナル(アメリカ・ローレル競馬場、芝2400)は8頭立ての8着。しかし、オールドファンはご存知の通り、当時はこのレースに出走すること自体が大変な栄誉だった。一流半の3勝馬から上り詰め、功成り名遂げたリユウフオーレル。大器晩成のお手本として、その足跡が色褪せることはない。