不定期更新
2005.05.24


 「スーさんの抵抗」

 昼下がりの喫茶店。久しぶりに会った友人の様子が少しおかしい。いやこういうケース、ものの1分もすれば弁解不要になるのだが、なぜか自ら実は…と白状する。「タバコ、半年前からやめたんだ」。“白状”のわりに表情が妙に晴れやか。あ、そう…。べつだんいやがらせでもないけれど、記者は一本くわえて火をつけた。「どうして?」。聞いてほしそうなので聞いてみる。「さんざん吸ったから、もういいいかと思ってさ」。それってポイ捨てじゃないの、皮肉ろうかと一瞬思った。まあいいか。友人は記者と同世代の50過ぎ。「あと、女房がどうもうるさくって」。彼の性格も考え合わせると、後者の理由がたぶん大きい。

 タバコをやめた知人が昨今多い。いやそれ以前に若い世代がハナからタバコを吸わなくなった。オトナの男はタバコを吸うのが当たり前、そう育ってきた記者などには少なからずカルチャーショック。しかしまあそのあたりうろうろ書くと長くなるから先を急ぐ。少なくともこれまで国税確保に黙々と努めてきた喫煙者、それがいま絶対絶命の窮地にある。百害あって一利なし――昨春から「健康増進法」とやらの目玉にもされた。新婚カップルならこんな会話か。「いらないよねタバコって。ケムいし、クサイし。だって子供もいるんだよ。それでも健ちゃん吸いたいの?」。最初ホタル族でお茶をにごしてきた健ちゃんも、そこで何も言えなくなる。健ちゃん本人の健康ではなく、周囲への迷惑が問題だった。

  少し前、ダルビッシュ有投手(当時18歳)がパチンコ屋かどこかで喫煙し、そののち謹慎というスキャンダルがあった。江本孟紀氏のコメント。「一般社会でタバコは特に悪くもない。ただスポーツ科学が標榜される中、なぜ若い選手、アスリートがそんな古臭いこと(喫煙)をやっているのか。その意識の低さが情けない」。ごもっともと納得する。未成年者における健康上のタバコの害、そんな話ではまったくない。要するに喫煙という行為自体、きょうびカッコ悪い典型であること。ケムくてクサい、それだけの存在でしかないこと。オトナへの階段を昇る不安と愉しさ、その象徴がタバコであった記者などとは、時代の感覚が大きく違う。

 ひと月ほど前だったと記憶する。通勤電車、中吊り広告の「スーさんシリーズ」を見て驚いた。ほぼ反撃不能というタパコ逆風に、ひとつ抵抗しようという“JT”のイメージ戦略。以後記者が読んだコピーは4つ、いずれもなかなかのデキと思えた。「喫煙スペースは、ふだん話せない人と話せる」 「ホタル族だと笑いながら、子供を大切にしている」 「横でタバコを吸うときに、そっぽを向く彼が好きだ」。もう一つ、一番の傑作といえばこれだろうか。「煙が、下に沈むなら、気持ちは軽くならないだろう――」。疲れたとき、思うようにならないとき、男はタバコを吸ってきた。遠くをぼんやり眺めながら煙を宙に浮かせ、そののちため息のひとつもついてみる。ほんの一瞬、少しだけだが元気になる。百害はともかく一利はあった。

 “JT”のホームページをのぞいてみた。見事な“作品”がアップされている。「スモーカーズスタイルが考える大人とは…」。都会の青空――鮮やかなブルーを背に、宮沢賢治風の詩が綴られていた。一部引用させていただく。「こころよりからだを磨く人々を笑い、長生きのための長生きをせず、痛みを知り、快楽を知り…」。JTの苦悩はけっこう深い。詳しい内情は知るよしもないが、聞きかじり、読みかじりでは、存在自体が相当に不透明。昨年募った希望退職者が、公社(会社?)4千人の見込みが、6千人超、これは全社員の3分の1であるという。タバコが嫌いな社員が、ユーザーにタバコを勧める矛盾と理不尽。逆にいえば、PR担当者は真のプロ、コピーライターと胸を張っていいかもしれない。

 タバコは1日25本、とこれは自分の話。すでに30年来続けてしまったから、いまさら健康のための禁煙は手遅れで、そんな意思も元よりない。ただ最近しばしば思うこと。できれば、いいタバコを吸いたいこと。文字通り一服の清涼剤にしたいこと。ワープロを使いながら、ない知恵を搾るために吸うタバコ。雑踏の中で人待ち顔、イライラしながら吸うタバコ。あるいは吸いさしのまま灰皿に忘れ、もくもくとくすぶらせてしまうような不幸なタバコ。思えば30年来、ムダに燃やした一本が多かった。

 タバコの似合う風景――。個人的には二つ浮かぶ。一つは競馬場で馬券を買い終わり、人事を尽くして天命を待つ(?)ファンファーレ直前、そういう一服。一つは郊外の広々とした駅ホーム、10分ほどの待ち時間に、心地よい風に吹かれながら、そういう一服。記者の場合、船橋競馬への行き帰りなら新木場駅(東京湾が見える)、浦和競馬なら武蔵浦和駅(遠くに富士山)などが、貴重な喫煙スポットになっていた。元より、深呼吸できる場所で吸ってこそタバコはうまいものだと思う。このケース、受動喫煙への心配もおそらくない。

 その昔、JТのコピーは「今日も元気だ タバコがうまい」であった。今思い出すと、素朴でストレートすぎて笑ってしまう。いやいや当時は「JT」などではなく、「日本専売公社」だった。いい時代だったかどうかはともかく、タバコも親方日の丸を背に、今よりずっと元気だったのは確かである。

 蛇足ながら、記者の家ではつい先日、家の者の強い要望で「大型空気清浄機」が導入された(費用は夫負担)。スーパークリーン機能。ケムリ、ニオイを90%カット。「タバコモード」というボタンがある。押すと、思わせぶり、不気味な振動で回転を始め、何時間も止まらない。「部屋に染みついているからなのよねぇ…」。テレビの音が聞こえない。これって家庭の環境破壊ではないのだろうか。



吉川 彰彦
Akihiko Yoshikawa

本紙解説者、スカパー!・品川CATV大井競馬解説者、ラジオたんぱ解説者
 常に「夢のある予想」を心がけている、しかしそれでいてキッチリと的中させるところはさすが。血統、成績はもちろんだが、まず「レースを見ること」が大事だと言う。その言葉通り、レースがある限り毎日競馬場へ通う情熱。それが吉川の予想の原点なのである。